映画

裏MotorsportsFlashback。
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角川映画というと、書籍・テレビCMと映画のメディアミックスによって低迷していた日本映画のカンフル剤的な役割を果たした、新進気鋭の独立プロにして邦画界の異端児、というイメージでした。
その後、フジテレビなどが同じやり方(こちらはテレビ番組とのメディアミックス)で成功を収めましたが、その角川が、かつてのメジャースタジオでもあった大映を徳間書店経由で買収、その後配給会社大手の日本ヘラルドをも買収。
また、邦画界において確固たる地位と名声を持っているキネマ旬報をも傘下に収めており、いまや、かつての異端児が、日本映画界の一大メジャーブランドになっています。

昭和ガメラ このメジャーブランドが現在取り組んでいるのが、特に歴史を持つ「大映」ブランドの持つ数々の資産を活用することです。
その第一弾が、昨年公開された『妖怪大戦争』のリメイクでした。
三池崇史を監督に迎え、過去の『妖怪大戦争』とはテイストを変えつつも、負けず劣らずの「怪作」に仕上がっており、これはこれで楽しめるものでした。
そして第二弾となるのが「大魔神」と双璧を成す大映の持つメジャーキャラクター「ガメラ」の復活です。

思えば、昭和時代のガメラは、ごく初期を除いて、子供向け特撮映画の範疇を出るものではありませんでした。
主人公も子供、お話も子供向け、そして設定上も「ガメラは子供の味方である」というように、明らかに子供「だけ」を対象にした作りになっていました。
そして、予算の問題もあったのでしょうか、同じ子供向けでも、東宝「ゴジラ」シリーズよりさらに安普請なのが、かえってガメラシリーズ独特の味になっていたようにも思います。

G2一方、一般に「平成三部作」と言われる、金子修介・樋口真嗣の産みだしたガメラは、きっちり予算と手間を掛け、映像的にも脚本的にも大人の鑑賞に耐えるものになっていました。
特に平成の二作目『ガメラ2/レギオン襲来』は、その緻密なSF設定と、自衛隊を軸とした「戦争映画」としても通用する描写などが評価され、日本SF作家クラブから、映画としては初めて「日本SF大賞」を送られたりもしています。
ただ、平成シリーズ全体として、そのマニアックな設定が災いして、「子供のファン」を獲得できず、かつて「昭和シリーズ」を見て育った大人(いわゆる「大きなお友達」層)が喜んで観に行くのみ、という、シリーズとしては何とも尻すぼみというか、ガメラファン層の拡大には全く寄与しなかったというとほほな結果に終わりました。
二作目が各方面から絶賛されるほどの傑作だったにも関わらず、それを受けて製作された三部作の三作目が、散々拡げた大風呂敷を畳みきれないまま終わってしまった、というのも、シリーズ全体としての評価が今ひとつになった原因かもしれません。

そして、今回のガメラ。

昭和から平成シリーズを経てきたファン層を納得させるためには、かつての平成三部作同様に、緻密な設定とリアルな描写に依った作りにすべきです。
作り手もそれは重々承知していた筈ですが、今回の作り手達は、敢えてそうしていません。
設定は甘いし、主人公も子供であることから、ドラマ部分も子供主体で、むしろ、昭和~平成(金子樋口)を通過してきたファンから見れば、退化とも取られかねないものになっています。
ただ、作り手達が「今回はジュブナイル」「今回はファンタジー」と明言しているところからも、この「先祖がえり」は意識して行なわれたであろうことが伺えます。
つまり、敢えて、平成(金子樋口)の熱烈なファン層におもねることなく、新しいガメラ(というか新しい怪獣映画と言うべきか)像を模索したもの、と言えます。

物語は、伊勢・志摩地方を舞台に始まります。

なかなかおもしろい作品でした。
V
独裁国家と化した近未来の英国。労働者階級の若きヒロイン、イヴィー(ナタリー・ポートマン)は絶体絶命の危機に見舞われたところを“V”とだけ名乗る仮面の男(ヒューゴ・ウィービング)に命を救われた。
 いくつもの顔をもつVは、華と教養を兼ね備えた紳士であり、恐怖政治に抑圧された市民を暴君の手から解放することに余念がない。しかし一方では、怨念にかられた血の復讐鬼でもあった。
 不正と暴虐にまみれた政府から英国民を解放するため、Vは国の圧制を糾弾し、同胞の市民に国会議事堂前に集結するよう呼びかける。決行は11月5日――“ガイ・フォークス・デー”だ。
 1605年の同じ日、ガイ・フォークスは火薬を詰めた36個の樽とともに、議事堂の地下道に潜伏しているところを発見された。フォークスをはじめとするレジスタンス一派は、ジェイムズ一世を君主とする圧政に反発し、政府の転覆を狙って“火薬の陰謀”をくわだてた。だが、一斉に摘発されたフォークスらは絞首刑、火あぶりの刑、四つ裂きの刑に処され、計画は未完に終わってしまったのだ。
 その反逆精神とあの日の記憶を胸に、Vはフォークスの計画を引き継ぐことを心に誓う。1605年11月5日に処刑されたフォークスに代わって、国会議事堂を爆破しようというのだ。
 謎に包まれたVの素性が明らかになるにつれ、イヴィーは自分自身についての真実をも知るようになる。図らずもVの協力者となったイヴィーはVの悲願をはたすべく、革命の火をともし、血も涙もない腐りきった社会に自由と正義を取り戻すために立ち上がった。

描かれている「未来のイギリス」は、古くは『ブレードランナー』や『未来世紀ブラジル』で80年代に提示され(もっと遡ると『メトロポリス』←こりゃ遡り過ぎだ)、見飽きたというか、手垢のついた「絶望的な未来国家」。
まぁ、それもそうで、この映画の原作は、80年代のイギリスで発表されたコミックだそうです。
なるほど、この映画の至る所に見られる80年代っぽさは、サッチャー政権下のイギリスの匂いなんですな。
救いようの無い暗さ、それでいて変にスタイリッシュなところがあったり。

監督のジェームズ・マクティーグという人は、『マトリックス』の助監督で、脚本はまさにその『マトリックス』のヲタ兄弟、ウォシャウスキー兄弟。
とはいえ、『マトリックス』らしい凝った映像の作り方はあまり見られません。
予告編や配給元の宣伝を見ると、『マトリックス』の流れを汲んだ驚愕の映像で描かれるアクション、というようなイメージを持たせようとしている節も見受けられますが、Vが多くのナイフを自在に操りながら警官隊を倒していくシーンに、多少のそれっぽさが窺える程度ですな。
実際は、前述の通り、80年代に流行った「惨憺たる未来像」をベースに、NY同時多発テロを経た2006年の視点をふりかけてみた、暗ぁーい映画ですから。

その暗い映画に差す一筋の光明が、ナタリー・ポートマンです。
いやー、スター・ウォーズ・サーガの1~3に出て、まさに女優としての成長過程をそのまま世界中に晒すという大冒険の結果、やっぱり少なからずパブリック・イメージの低下を招いてしまい、そうこうしているうちにキーラ・ナイトレイという、『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』で自身の影武者を演じた新進イギリス人女優に、その現代映画界に於けるポジションを乗っ取られつつある今日この頃ですが、この作品では、怯えながらも奥に秘めた芯の強さを窺い知れる眼差し(『レオン』の時の眼!)が戻ってきています。
ナタリー・ポートマン
一方、主人公?である「V」を演じるのは、「エージェント・エルロンド」ことヒューゴ・ウィービング。終始仮面を被ったままで、必然的にオーバーアクションになりがちなところですが、適度に抑えた芝居できちんと厄介な役を演じきっています。
ジョン・ハートが、いかにもな独裁者(名前が「サトラー」ってところからも、ストレートに「ヒットラー」を連想させます)を嬉々として演じているのも面白かったですね。

先行ロードショウを広島スカラ座で見てきました。
この広島スカラ座、所謂古き良き大劇場です。大阪でいうところの北野劇場、東京なら丸の内ピカデリー。その広島スカラ座が、土曜夕方18:10からの上映で、場内おおよそ2割の埋まり具合。
ちょっと先行き心配な出足ではあります。

ベストセラー名作大河ファンタジーの映画化であること、また、原作者が同時代のイギリスで、且つお互いに交流もあったということ、など、どうしても『ロード・オブ・ザ・リング』三部作と比較されてしまいます。
実際、見ている観客の大多数は、アレを見ているわけで、比較するなと言う方が無理。
ただ、こちらは原作があくまでも児童文学。対してあっちは、どう読んでも子供向けとは思えないものです。
まあ、それを反映してか、お話は、ディズニー映画であるという点も含め、随分と薄味で毒のない作品に仕上がっています。
製作陣の、原作への愛情の濃さも、指輪三部作とは比較にならないでしょうね。

そういえば、比較される対象が、指輪三部作以外にもあります。
現在進行形のファンタジー大河と言えば、『ハリー・ポッター』シリーズですが、あれも(今のところ)回を重ねるごとに色合いがダークになったり、ストーリーが児童文学からジュブナイルに進化したりしていて、ちょっと直接比較する対象じゃないかな、とは思いますね。
それになによりハリポタシリーズと違うのは、主役の子役達ですね。
ルックス、存在感ともに、ハリーやハータンたちとは比較になりません。
最大の見せ場(魅せ場)である戦闘シーンでの、兄と弟の甲冑姿も、まったくサマになっていません。
これが、「主役達の成長を見せるため、敢えてシリーズ一作目では未熟なところを見せる」という、長期シリーズを見据えての戦略なら、それはそれでアリなんでしょうが、ある意味商売度外視で当初から三部作を作るつもりで準備万端整えていた指輪なんかと違って、商売最優先のディズニーのこと、この1作目が大ヒットしなかったら続編作らないかも・・・と思うと、なかなかに難しい話ですね。

最大の売りである、CGなどの特殊技術を駆使した映像ですが、これなどはまさに指輪三部と比較すると、監督の力量不足を実感してしまいます。
今は、予算さえあれば本当に「どんなイメージも映像化できてしまう」時代です。
そして、そんな時代だからこそ、クリエイターは「イマジネイションの豊かさ」を求められるのだと思います。
それが顕著に出ていたのが、最大のクライマックスである合戦シーン。
善と悪の対立構図の下で、善側の大群と悪側の大群が広い草原で対峙し、いっせいに激突する場面は、双方の大群を構成するのが、現実には存在しない空想上の生物である点も含め、否が応でも指輪三部作、とりわけ『王の帰還』の「ペレンノール野の戦い」を思い出させます。
指輪から2年後の公開である本作では、当然ながら、CGや特殊メイク等の特殊撮影の技術は、さらに進化している筈です。
にも関わらず、ペレンノール野の戦いより、明らかに見劣りする合戦シーン。
現実には存在しない生物の大群同士が、敵味方に分かれて対峙するシーン、そして両軍が正面衝突するシーン。
それをどう捉えるか、どう撮影するか、どうカット割りするか、どう繋ぐか。
まさに作り手たちのイマジネーションの豊かさが問われます。
例えて言えば、デジタルシンセサイザーが普及し、ミュージシャンの誰でもどんな音でも出せるようになった時代、それじゃそのハードを使って作る曲は果たしてどうか、が、演奏技術以上に問われる時代が来ました。
それと一緒です。
「どんな映像でも作れる」時代だからこそ、純粋な「映像クリエイター」としての資質・力量が問われる今日この頃ですねえ。それを痛感させられましたよ。

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