2011年05月

裏MotorsportsFlashback。
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2010年日本
▼製作:SOS団(角川書店/角川映画/京都アニメーション/クロックワークス/ランティス)▼総監督:石原立也▼監督:武本康弘▼脚本:志茂文彦▼音楽:神前暁ほか▼キャラクターデザイン・超総作画監督:池田晶子▼総作画監督:西屋太志▼作画監督:植野千世子/秋竹斉一/池田和美/高橋真梨子/門脇未来/堀口悠紀子/高橋博行▼アニメーション制作:教徒アニメーション
▼出演:杉田智和/平野綾/茅原実里/後藤邑子/小野大輔/桑谷夏子
配給:角川映画 公開日:2010年2月6日

涼宮ハルヒの消失
(劇場版京アニ公式サイト)

 劇場版とテレビシリーズが相次いでBlu-ray disk化されたのを、数日かけて改めて見終えたあとに感じたことを、いまさらですが書きます。

 この劇場版は、非常によくできたSFジュブナイルの映像化作品です。

国産劇場用アニメの全体的な高品質化

 原作小説は、ライトノベルの枠内で語られることが多いのですが、基本には、SF的な枠組みの中で高校生を主人公にした「キャラもの」小説です。そして、この映画は、その原作小説でいうと第四巻を、まるまる映像化したものです。
 テレビシリーズとしてアニメ化もされて大人気を博した『涼宮ハルヒ』シリーズですが、テレビも映画も、制作スタジオは今の国内アニメーション業界を引っ張るスタジオの一つ、京都アニメーション、通称「京アニ」です。
 京アニは、原作の世界観を大切にした映像化と、その丁寧な絵作りで定評がありますが、この映画作品ではさらにその方針が徹底されており、劇場版パンフレットにも記載されている通り、もともと原作に忠実かつ丁寧な作りだったテレビシリーズから、さらに予算も時間も潤沢に掛けて、現代の劇場版アニメとしては非常に質の高いものに仕上がっています。

 尤も、最近の劇場版アニメは、どの作品もこういった傾向が強く、『魔法少女リリカルなのは The Movie First』、『Fate / stay night - UNLIMITED BLADE WORKS』など、同時期に公開された劇場版アニメーション作品は、いずれも元のテレビシリーズやゲームなどの世界観を大きく変えることなく、劇場版ならではの予算と時間をたっぷり掛けて、「映像としては」高品質なものとなっています。

 その流れに沿って考えると、この『涼宮ハルヒの消失』の品質の高さも、特記すべきものとは言えません。

 ただ、特筆すべきは、(敢えてライトノベルとは言いません)SFジュブナイルとしての完成度の高さです。
 原作小説もジュブナイルと言えなくはないんですが、この映画に限って言えば、いや、テレビシリーズからこの映画に至る、アニメーションで映像化化された『涼宮ハルヒ』シリーズ全体として、原作の持つポテンシャルを軽く超越した大傑作となっていると考えます。

 ただし、この傑作を真に「傑作」と言い切れる人、そう感じられる人は、ある種の条件を満たす人だけになります。

 映画の感想や批評を書いてあるblogやサイトなどで、頑なに

「映画は映画として単独で見て評価されるべきである」

 という、映画原理主義とでも言うような主張を時々見かけます。
 そういう主張をする人たちは、
「原作を読んでいないと話が分からない」

という映画は絶対に認めません。あくまでも、金を取って映画を見に来た観客にとっては、映画の中で得られる情報が全てであり、その枠内での評価しか認めない、というものです。

 彼らにとっての目の敵は、たとえば、『ハリー・ポッター』シリーズ。
 原作は長大な長編小説です。映画の方も回を重ねる毎に上映時間が延びて、いつの間にか、本来対象である小さな子供が鑑賞に耐えうる長さを越えた長尺になっています。
 それでも、原作小説にあったエピソードを全て映像化するのは時間的に不可能であり、映画にはある程度の「端折り」があるんですが、それがために、映画だけを見ていると、お話の流れについて行けていないな、と感じる部分があります。

 先に書いた映画原理主義者たちにとっては、これは許しがたいことなんでしょう。
 そして、そういう映画原理主義者たちにとって、本作『涼宮ハルヒの消失』もまた、許しがたい作品、ということになるのかな、と思うと、まぁなんとももったいないことです。

 さて、では、この映画を十分に楽しむための条件、とはどういったものか?
 以下のいずれかに該当する人なら、まず文句なく楽しめるでしょう。

  1. テレビシリーズ全話を見た人
  2. 登場するキャラクターや設定などを知った上で、テレビシリーズ中の『笹の葉ラプソディ』『エンドレスエイト(を全話)』『サムデイインザレイン』を見ている人
  3. 原作全巻読了者
 まず、ストーリーの流れでいうと、本作『涼宮ハルヒの消失』は、時系列としては、テレビシリーズ最終話『サムデイインザレイン』の直後から話が始まります。
 さらに作中で、タイムトラベルにより『笹の葉ラプソディ』で描かれた、「3年前の七夕の夜」と、時空間が行き来します。
 つまり『笹の葉ラプソディ』の内容と本作の内容は、互いに補完関係にあります。『笹の葉ラプソディ』で提示されたまま残されていた謎については、そのほとんどに対して、今回、解答、もしくは解明に至るヒントが提示されます。
 逆に、『笹の葉ラプソディ』そのもののストーリーに関しては、今回、ほとんど説明されませんなので、テレビシリーズの第一期だけしか見ていない人は、加えて、せめて『笹の葉ラプソディ』だけでも見ておけば、ずいぶん違うと思います。

『エンドレスエイト』は必要だった

 テレビシリーズ二期で悪評高かった、『エンドレスエイト』というエピソード。
 「終りのない八月」という意味を持つタイトルのこのエピソードは、主人公の涼宮ハルヒが、自らの理想とする夏休み体験が得られなかったがために、無意識のうちに夏休みを一万五千四百九十八回だか繰り返す、という話です。
 なんとこれをテレビでは、実際に、夏休みのできごとを描いた同じエピソードを八回繰り返し放送するという、まぁ良くいえばアヴァンギャルドで実験的な訳ですが、実際にやってみた結果、出演声優たちは困惑を隠せないままに収録にのぞみ、放送されればファンからは非難轟々、という訳で、それまでそれなりに2000年代を代表するテレビアニメとして評価を得ていた『涼宮ハルヒの憂鬱』の評価そのものを落とした元凶、とも思われていたエピソードです。

 ところが、この劇場版『涼宮ハルヒの消失』にとって、このエピソードは欠かすことのできない布石となっています。
 具体的には、本作(劇場版)のストーリー中で提示されている、「全ての原因は長門有希」というところです。
 普段から人間的な感情をほとんど見せず、過去には超人的な能力で登場人物たちの危機を乗り越えてきた長門有希が、なぜ突然この映画では、あのようなことになったのか?
 ここは、テレビシリーズ一期だけを見てから映画を見た人には、長門のキャラの振れ幅があまりに大きすぎ、違和感を感じた部分ではなかったでしょうか。

 ところが『エンドレスエイト』を延々と見ていた(むしろ「延々と見させられていた」)二期の視聴者にとっては、あのいつ終わるともわからない徒労感を味わったことで、劇中の長門有希と同じうんざりした感じを共有することができたのではないか、そして制作側にとっては、あの無謀とも思える『エンドレスエイト』の真の狙いがもしかして、そこにあったのではないか、と思うのです。

 通常のことではびくともしない強心臓かつ無感情の長門有希(彼女は実際は人間ですらない)。その彼女が、なぜあそこまで追い込まれたのか、長門有希だけが感じていた様々な真実、そして彼女自身が手を下さざるを得なかった状況。それによって彼女が感じていたであろう「うんざり」とした感覚。それを視聴者(劇場版の鑑賞者)に共有させるための効果的な手段こそが、あの『エンドレスエイト』の手法だった、ということなのではないでしょうか。

 『エンドレスエイト』は、『涼宮ハルヒ』という映像コンテンツそのものに対して、一期を終えた頃にあった、時代を代表する傑作、という評価を覆してしまった。少なくとも、あれで離れてしまったファンは少なくなかったでしょう。
 でも、それを大きな伏線として、二期放映の翌年早春に劇場版でそれを回収してしまったとも言えるわけで、長期に渡り、しかもテレビシリーズと劇場版を通して、シリーズ全体のディレクションをここまで上手くやった例はあまり思いつきません。

 テレビシリーズ二期とのあいだの仕掛けにばかり話が行きましたが、その制作側が最初に設けた関門さえクリアできれば、とにかく楽しめる作品です。脚本も演出も作画も音楽も素晴らしい。ストーリーの仕立ては脚本というより原作に負う部分が大きいでしょうが、それ以外にも主人公の感情描写などは、抜きん出て素晴らしいものになっています。

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タグ : 涼宮ハルヒの消失 涼宮ハルヒの憂鬱 日本映画 アニメ

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