映画

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2011年イギリス/アメリカ
▼監督:デイビッド・イェーツ▼脚本:スティーブ・クローブス▼製作:デイビッド・ヘイマン/デイビッド・バロン/J・K・ローリング▼音楽:アレクサンドル・デプラ/ジョン・ウィリアムズ/ニコラス・フーパー
▼出演:ダニエル・ラドクリフ/ルパート・グリント/エマ・ワトソン/アラン・リックマン/ヘレナ・ボナム=カーター/マイケル・ガンボン/ジョン・ハート/ゲイリー・オールドマン/トム・フェルトン/イヴァンナ・リンチ/ボニー・ライト
配給:ワーナー・ブラザーズ映画 公開日:2011年7月15日

ハリー・ポッターと死の秘宝 Part2
(日本語公式サイト)

 シリーズ最終編『死の秘宝』は原作でも超長編だったため、映画も前後編に分けて作られましたが、待ちに待った後編(Part2)が公開されました。
 前後編に分けたのは、もちろん長大な原作の内容を描き切るという意味では正解だったんですが、それ以上に、内容的に、前編でとことん絶望へ向かう状況を描きながらも逆転への伏線を散りばめ、後編ではそれらを回収しつつ過去のシリーズ作へのオマージュをも描きつつ、大規模な戦闘シーンから一気にハッピーエンドへと持っていくという手法、そしてスネイプ先生に関するどんでん返しと、ストーリー的にも映像的にも大いにカタルシスを感じさせるものになっていました。

 主演の三人の役者としての成長具合も感じさせましたが、見た目はもちろん、演技的にも成長していたのですが、なんといってもロンとハーマイオニー、そしてハリーとジニーの二人の大人のキスシーンが見られたことが、寄り道を繰り返していた四人の恋の帰着点として、安心させてもらえたことが、ちいちゃい子供の頃から彼らを見ていた身としては嬉しかったなあ。

 あと、ラスト、成長した彼らがそれぞれの子供をホグワーツに送り出すシーン、もともとおっさん顔になっていたロン(ルパート・グリント)はともかくとして、ハリーが意外にもはまっていたな。
女性陣では、エマはもう十分きれいなお姉さんになっているからいいとして、ジニー(ボニー・ライト)が所帯染みた団地妻っぽさを出していてあれはあれでよかった。

…などとまぁ、役者陣への賞賛は尽きないわけですが、シリーズを追うごとに、子供向けファンタジーからジュブナイル、そして大人向けのダークファンタジーへと変貌を遂げたこのシリーズ、最初から追い続けている人たちも登場人物(そしてそれを演じる俳優たち)と共に成長を遂げてきた訳で、最終的にこういう完全に大人向けのものになってよかったなぁ、と思いました。
監督の変遷も、最初の二作が『ホーム・アローン』や『グーニーズ』などの優れた子供向け映画を撮っているクリス・コロンバス、若干ダークになった三作目がアルフォンソ・キュアロン、四作目がマイク・ニューウェル、と監督を次々と交代させつつ、シリーズの色を徐々に変えてゆき、そしてストーリーがヤマを迎える五作目以降をデヴィッド・イェーツ一人に任せることで色彩の統一を図り、シリーズとしての統一感を目指すというやりかたも悪くなかった。  正直自分も最初の二作くらいを見て「これはちょっときっついなあ…」(ガキ向けすぎるかなぁ)って感じたんですが、話を追うごとにどんどんダークになっていき、気がつけばどんどんシリーズにはまっていったわけで、そういう人にとっては本当にいい最終エピソードになったのではないかと思いました。

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タグ : 映画 ハリー・ポッターシリーズ

2010年日本
▼製作:SOS団(角川書店/角川映画/京都アニメーション/クロックワークス/ランティス)▼総監督:石原立也▼監督:武本康弘▼脚本:志茂文彦▼音楽:神前暁ほか▼キャラクターデザイン・超総作画監督:池田晶子▼総作画監督:西屋太志▼作画監督:植野千世子/秋竹斉一/池田和美/高橋真梨子/門脇未来/堀口悠紀子/高橋博行▼アニメーション制作:教徒アニメーション
▼出演:杉田智和/平野綾/茅原実里/後藤邑子/小野大輔/桑谷夏子
配給:角川映画 公開日:2010年2月6日

涼宮ハルヒの消失
(劇場版京アニ公式サイト)

 劇場版とテレビシリーズが相次いでBlu-ray disk化されたのを、数日かけて改めて見終えたあとに感じたことを、いまさらですが書きます。

 この劇場版は、非常によくできたSFジュブナイルの映像化作品です。

国産劇場用アニメの全体的な高品質化

 原作小説は、ライトノベルの枠内で語られることが多いのですが、基本には、SF的な枠組みの中で高校生を主人公にした「キャラもの」小説です。そして、この映画は、その原作小説でいうと第四巻を、まるまる映像化したものです。
 テレビシリーズとしてアニメ化もされて大人気を博した『涼宮ハルヒ』シリーズですが、テレビも映画も、制作スタジオは今の国内アニメーション業界を引っ張るスタジオの一つ、京都アニメーション、通称「京アニ」です。
 京アニは、原作の世界観を大切にした映像化と、その丁寧な絵作りで定評がありますが、この映画作品ではさらにその方針が徹底されており、劇場版パンフレットにも記載されている通り、もともと原作に忠実かつ丁寧な作りだったテレビシリーズから、さらに予算も時間も潤沢に掛けて、現代の劇場版アニメとしては非常に質の高いものに仕上がっています。

 尤も、最近の劇場版アニメは、どの作品もこういった傾向が強く、『魔法少女リリカルなのは The Movie First』、『Fate / stay night - UNLIMITED BLADE WORKS』など、同時期に公開された劇場版アニメーション作品は、いずれも元のテレビシリーズやゲームなどの世界観を大きく変えることなく、劇場版ならではの予算と時間をたっぷり掛けて、「映像としては」高品質なものとなっています。

 その流れに沿って考えると、この『涼宮ハルヒの消失』の品質の高さも、特記すべきものとは言えません。

 ただ、特筆すべきは、(敢えてライトノベルとは言いません)SFジュブナイルとしての完成度の高さです。
 原作小説もジュブナイルと言えなくはないんですが、この映画に限って言えば、いや、テレビシリーズからこの映画に至る、アニメーションで映像化化された『涼宮ハルヒ』シリーズ全体として、原作の持つポテンシャルを軽く超越した大傑作となっていると考えます。

 ただし、この傑作を真に「傑作」と言い切れる人、そう感じられる人は、ある種の条件を満たす人だけになります。

 映画の感想や批評を書いてあるblogやサイトなどで、頑なに

「映画は映画として単独で見て評価されるべきである」

 という、映画原理主義とでも言うような主張を時々見かけます。
 そういう主張をする人たちは、
「原作を読んでいないと話が分からない」

という映画は絶対に認めません。あくまでも、金を取って映画を見に来た観客にとっては、映画の中で得られる情報が全てであり、その枠内での評価しか認めない、というものです。

 彼らにとっての目の敵は、たとえば、『ハリー・ポッター』シリーズ。
 原作は長大な長編小説です。映画の方も回を重ねる毎に上映時間が延びて、いつの間にか、本来対象である小さな子供が鑑賞に耐えうる長さを越えた長尺になっています。
 それでも、原作小説にあったエピソードを全て映像化するのは時間的に不可能であり、映画にはある程度の「端折り」があるんですが、それがために、映画だけを見ていると、お話の流れについて行けていないな、と感じる部分があります。

 先に書いた映画原理主義者たちにとっては、これは許しがたいことなんでしょう。
 そして、そういう映画原理主義者たちにとって、本作『涼宮ハルヒの消失』もまた、許しがたい作品、ということになるのかな、と思うと、まぁなんとももったいないことです。

 さて、では、この映画を十分に楽しむための条件、とはどういったものか?
 以下のいずれかに該当する人なら、まず文句なく楽しめるでしょう。

  1. テレビシリーズ全話を見た人
  2. 登場するキャラクターや設定などを知った上で、テレビシリーズ中の『笹の葉ラプソディ』『エンドレスエイト(を全話)』『サムデイインザレイン』を見ている人
  3. 原作全巻読了者
 まず、ストーリーの流れでいうと、本作『涼宮ハルヒの消失』は、時系列としては、テレビシリーズ最終話『サムデイインザレイン』の直後から話が始まります。
 さらに作中で、タイムトラベルにより『笹の葉ラプソディ』で描かれた、「3年前の七夕の夜」と、時空間が行き来します。
 つまり『笹の葉ラプソディ』の内容と本作の内容は、互いに補完関係にあります。『笹の葉ラプソディ』で提示されたまま残されていた謎については、そのほとんどに対して、今回、解答、もしくは解明に至るヒントが提示されます。
 逆に、『笹の葉ラプソディ』そのもののストーリーに関しては、今回、ほとんど説明されませんなので、テレビシリーズの第一期だけしか見ていない人は、加えて、せめて『笹の葉ラプソディ』だけでも見ておけば、ずいぶん違うと思います。

『エンドレスエイト』は必要だった

 テレビシリーズ二期で悪評高かった、『エンドレスエイト』というエピソード。
 「終りのない八月」という意味を持つタイトルのこのエピソードは、主人公の涼宮ハルヒが、自らの理想とする夏休み体験が得られなかったがために、無意識のうちに夏休みを一万五千四百九十八回だか繰り返す、という話です。
 なんとこれをテレビでは、実際に、夏休みのできごとを描いた同じエピソードを八回繰り返し放送するという、まぁ良くいえばアヴァンギャルドで実験的な訳ですが、実際にやってみた結果、出演声優たちは困惑を隠せないままに収録にのぞみ、放送されればファンからは非難轟々、という訳で、それまでそれなりに2000年代を代表するテレビアニメとして評価を得ていた『涼宮ハルヒの憂鬱』の評価そのものを落とした元凶、とも思われていたエピソードです。

 ところが、この劇場版『涼宮ハルヒの消失』にとって、このエピソードは欠かすことのできない布石となっています。
 具体的には、本作(劇場版)のストーリー中で提示されている、「全ての原因は長門有希」というところです。
 普段から人間的な感情をほとんど見せず、過去には超人的な能力で登場人物たちの危機を乗り越えてきた長門有希が、なぜ突然この映画では、あのようなことになったのか?
 ここは、テレビシリーズ一期だけを見てから映画を見た人には、長門のキャラの振れ幅があまりに大きすぎ、違和感を感じた部分ではなかったでしょうか。

 ところが『エンドレスエイト』を延々と見ていた(むしろ「延々と見させられていた」)二期の視聴者にとっては、あのいつ終わるともわからない徒労感を味わったことで、劇中の長門有希と同じうんざりした感じを共有することができたのではないか、そして制作側にとっては、あの無謀とも思える『エンドレスエイト』の真の狙いがもしかして、そこにあったのではないか、と思うのです。

 通常のことではびくともしない強心臓かつ無感情の長門有希(彼女は実際は人間ですらない)。その彼女が、なぜあそこまで追い込まれたのか、長門有希だけが感じていた様々な真実、そして彼女自身が手を下さざるを得なかった状況。それによって彼女が感じていたであろう「うんざり」とした感覚。それを視聴者(劇場版の鑑賞者)に共有させるための効果的な手段こそが、あの『エンドレスエイト』の手法だった、ということなのではないでしょうか。

 『エンドレスエイト』は、『涼宮ハルヒ』という映像コンテンツそのものに対して、一期を終えた頃にあった、時代を代表する傑作、という評価を覆してしまった。少なくとも、あれで離れてしまったファンは少なくなかったでしょう。
 でも、それを大きな伏線として、二期放映の翌年早春に劇場版でそれを回収してしまったとも言えるわけで、長期に渡り、しかもテレビシリーズと劇場版を通して、シリーズ全体のディレクションをここまで上手くやった例はあまり思いつきません。

 テレビシリーズ二期とのあいだの仕掛けにばかり話が行きましたが、その制作側が最初に設けた関門さえクリアできれば、とにかく楽しめる作品です。脚本も演出も作画も音楽も素晴らしい。ストーリーの仕立ては脚本というより原作に負う部分が大きいでしょうが、それ以外にも主人公の感情描写などは、抜きん出て素晴らしいものになっています。

2010年日本
▼製作:映画プリキュアオールスターズ製作委員会▼監督:大塚隆史▼演出・絵コンテ:大塚隆史、松本理恵▼脚本:村山功▼作画監督・キャラクターデザイン:青山充▼音楽:高梨康治、佐藤直紀▼アニメーション制作:ABC・東映アニメーション
配給:東映 日本公開日:2010年3月20日

 今年で七年目になる、女児向けテレビアニメーションシリーズ。昨年2009年に続き、これまでのシリーズの主人公たちが全員登場して活躍するオールスターもの作品の第二弾。

 昨年の『映画 プリキュアオールスターズDX みんなともだちっ☆奇跡の全員大集合!』では、シリーズ全作品の主人公全員に見せ場を用意していました。
 見せ場、とは、具体的には「変身シーン」「戦闘シーン」「必殺技シーン」です。

 ところが、2009年時点では足掛け六年間、主人公達の合計は14名。
 しかも対象年齢層は、小学校低学年レベルの女児。一般的には長時間の映画鑑賞に耐えられない年代。
 さらに、客層がそうである以上、幼稚園や学校がお休みの日に観客数を稼がなければならず、一日あたりの上映回数を稼ぐ必要がある。

 これらにより、必然的に上映時間は短くしなくてはいけません。そんな短い中に先ほど述べた「見せ場」の数々を確保しなければいけない、となると、どうしても「見せ場」である変身・戦闘・必殺技のシーンばかりを集めたダイジェストのようなものになってしまいます。

 昨年の作品がそのようなものになったことを踏まえたのか、今年の作品は、昨年に対して比較的にストーリー性を重視したものになりました。
 歴代主人公たちの中にあって、現行テレビシリーズの主人公達と、前年度の主人公達。彼女たちには今回も見せ場が用意され、かつ、ストーリーの中心的な立場を与えられました。
 ただ、そうなると今度は過去のシリーズの主人公達の見せ場が少なくなります。
 結果、昨年の作品にあった、「全シリーズの主人公全員の変身シーン」「同・必殺技」というのは大きく割愛されました。

 そのかわり、作品のラストで、主人公17名全員が、それぞれのシリーズの主題歌に乗せて舞台に登場し歌い踊り、最後に全員で群舞する、という演出がなされます。
 過去作のファン達はみな、ここで、作中での過去の主人公達の活躍の少なさを帳消しにして余りある満足を得て溜飲を下げます。

 既に2011年春には、このオールスターシリーズの三作目が公開されることが発表されていますが、公開されている特報などを見る限り、一応、三作目をもって、このオールスター映画は終了させるようなニュアンスが感じられます。
 プリキュアシリーズを最初から応援してきた者としては三作目も楽しみであり、また、オールスターシリーズが終焉を迎えるのならば寂しくもあります。
 同時に「オールスターもの」というコンセプトと作劇上の無理を、来年の三作目はどう折り合いをつけるのかも楽しみにしたいと思います。

2009年アメリカ
▼製作総指揮:モーガン・フリーマン、ティム・ムーア、ゲイリー・バーバー、ロジャー・バーンボーム▼製作:ロリー・マクレアリー、ロバート・ロレンツ、メイス・ニューフェルド、クリント・イーストウッド▼監督:クリント・イーストウッド▼脚本:アンソニー・ペッカム▼音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンス▼撮影:トム・スターン
配給:ワーナー・ブラザース 日本公開日:2010年2月5日

 南アフリカ共和国で開催されたラグビーのワールドカップをテーマにした、実話を基にした映画です。

 ハリウッドでは保守派として知られるイーストウッドですが、この映画は一見して、とてもリベラルなものに見えます。
 「白人と黒人の融和」を是として、当時、国策であるアパルトヘイトによって分断されていた両者が融和へと向かう様子を、弱い南アフリカのナショナルチームが強くなっていく様子と並行して描いています。

 保守派でありタカ派であるイーストウッドがこのような映画を撮り、しかも大変いい映画に仕上がっているのは意外な感を受けます。

 しかしながら考えて見れば、アメリカという国家は、もともと多民族国家であり、異文化からの移民を広く受け入れて成立してきたという背景があります。
 つまり、アメリカにおける保守というのは、異文化への寛容という部分を併せ持つということであり、その意味では、保守派のイーストウッドがこの作品を手がけたというのは、至極まっとうなことであると分かります。

 保守主義とレイシズムが表裏一体になっているかのような現代日本の自称保守主義者どもは、刮目して見るがよろしい。

サマーウォーズ 公式サイト
サマーウォーズ 公式ブログ

 吉祥寺に住んでいた頃、同じお店で飲んでいた、いわば飲み仲間でもある、細田守監督。
 前作『時をかける少女』(2006年)が、恐るべき高評価だったため、広く一般に名前が知られるようになり、現代日本において、最も次回作を嘱望されるアニメーション演出家の一人であると言っても過言ではないほどの重要な存在になった人なので、今更飲み仲間なんていうのは大変気が引けます。
 その細田監督の次回作が、いよいよ今年の夏に公開されることになりました。
 すでに劇場用特報がYouTubeにあがっていますので、貼っておきますね。

 エヴァ新作といい、今年は劇場用アニメが熱い夏になりそうです。

  

 色々な話を聞くと、ぜんぜんヒットしていないようだが、これは傑作だと思う。

 万人にお勧めできる、後世に残る傑作という訳ではない。むしろ、ちょっと癖があるので、観にいこう、という人は少ないかもしれない。
 でも、一年に何本か映画館で映画を見る人がいて、2008年印象に残った映画を10本挙げてよ、とかいう企画だと、必ず入ってくる。そういった企画でトップ1にはなれないかもしれないけれど、トップ10には入ってくる。俺的には『アフタースクール』とタメを張れる、今年唯一の邦画、日本映画2008年の二大傑作だけどね。
 三池崇史という監督は、こういった映画をよく作る。多作だけれども駄作がない、秀作と呼ぶにはあまりにも癖が強く、観る人、いや観ようとする人を選ぶかもしれないけれど、その関門を抜けて観にいった人たちみんなの心になにかしらを残す映画を撮る。それがVシネマに毛が生えたようなものでも、テレビ局タイアップの娯楽大作であっても。

 市原隼人谷村美月の、若い主演二人がとてもいい。特に谷村美月は、この映画がもし大ヒットしていたなら、少なくとも彼女の女優生活初期の代表作、といえるほどに、その存在感と芝居が際立って良い。特に天才ならではの孤独感がにじみ出ているあたりは、自らも「天才子役」「アンダー20の若手世代では抜きん出た演技力」とメディアで持ち上げられることが多いだけに、演技じゃなくて素じゃないの?と思わせるばかり。
 一人称が「僕」であったり(いわゆる「ボクっ娘」だな)、話し方がとってつけたようにつっけんどんだったりする、絵に描いたようなキャラ設定なのが、同年代の並みの女優さんが演じたらとてもじゃないが臭くなって見てらんないことになるところを、彼女の演技力と存在感が見事に成立させていると思う。

 そして、つっけんどんな物言い、自分で自分の周囲に殻を作ってしまうキャラであるにも関わらず、劇中で常に着用している水色のジャージとショートパンツから覗く(谷村のベビーフェイスから想像できないほどの)巨乳と綺麗な太ももが、その無機的なキャラ設定との「対称」(本作における重要なキーワードでもある)作用によって、強い印象を残す。

 映画のストーリーの根幹に関わる部分だけに、決して手を抜かずに、宇宙の成り立ちに関する物理理論を、学生のディベートという形式をとって説明するくだりは、娯楽映画の文法的には、「冗長」ということになると思う。
 でも、敢えてその「冗長」とも思える部分を、CGも交えながら、三池監督らしい力技と市原隼人の勢いのある演技でもって見せ切ってしまうあたりは、娯楽としての表層的な損得勘定に流されずに、この映画を映画として成立させようとしている三池監督らしい部分でもあるし、もっと言えば、角川春樹らしい部分でもあるんでしょう。
 尤も、だからこそこの映画が大ヒットしていないんだ、とも言えるけどorz
 映画界の風雲児と呼ばれていた頃の角川春樹なら、従来の文法を敢えて外してこだわった部分を残しつつも、逆にそれを興行的にも大ヒットに結び付けられるだけのものがあったのかもしれないけれど、残念ながら今の角川春樹には、その勢いは備わっていない。そこは、この傑作が世にあまり知られることがない、という部分において大変残念ではある。

 ラストカットの谷村美月の笑顔と涙。
 この映画のすべては、最後にあのワンカットに収束されていく。
 あのワンカット、あのホズミサラカ(谷村美月が演じる役名)の表情を、もっと多くの人に見てもらいたい。つうか早く観にいってくだしあ!もうじき終わっちゃう!

アフタースクール

 すごく面白かったっす。今年に入ってから、あまり面白い映画と出会っていなかったけど、これはいい。
 ミステリー小説が好きな人なら知ってるでしょうけど、叙述トリックという言葉があって、このトリック、使い方によっては、いくら小説が大ヒットしていようとも、映像化するのが大変困難になるという、諸刃の剣。
 で、この映画は、いわば「叙述トリック」の映像版とも言えるかも。
 ネタバレになるから、これ以上は書けませんが、とにかく面白い。TBSが製作に噛んでるから、
「またテレビ局絡みの映画かよ、( `д´) ケッ!」
とか思った人、そういう先入観は捨てて、とにかく見るべし、見るべし。

 テレビ局絡みの映画っていうと、テレビの連続ドラマの拡大版か、漫画や小説でヒットした原作モノ、もしくはクラシック名画のリメイクという名を借りた劣化再生産、と大体相場が決まってるけど、この作品は監督が脚本を書いており、ストーリーは映画オリジナル。まずこのストーリーが面白い。すごくナチュラルに、でも様々な場面に引っかかりというかフックのようなものをちりばめ、観客を見事なまでにミスディレクトしています。
 観客は、劇中の多くのシーンで、不自然さというか、何かおかしい、何かが違う、と感じながらも、その正体が見極められないまま、どんどん進む話に付き合わされ、気がつけば映画も終盤に差し掛かり、見事に一杯くわされたことに気づくという・・・

 あと、主演の三人+二人の女性がいいんですが、中でもとりわけ大泉洋がいいです。タレントじゃなくて俳優なんだ、と改めて感じましたね。

 とにかく、詳しくは書けないです。東京や大阪では既に上映終了してんのかな?広島では鷹野橋のシネツインで上映中。小さい劇場ではあるけれども、平日昼間でも席が八割方埋まっていたのにはびっくり。口コミって素晴らしい。

 この年末年始の過ごし方。

 といっても、DVDではないよ。ちゃんと劇場で鑑賞。

 広島は町の規模の割にはシネコンが多い気がするんですが、市内のどまんなかにある、「サロンシネマ・シネツイン系列4館」は、このシネコン全盛期に、独立系映画館としてシネコンのラインナップの隙間を縫うかのような作品を上映し続けてくれててありがたい存在です。
 シネツイン1と2は、本当に街中の繁華街にあって、劇場の規模もまぁミニシアターといってもいいくらいなものです。1がアート系やミニシアター系の作品をメインで扱っているのに対して、2はまたちょっとターゲットをずらしていて、シネフィルやらヲタといったマニア層をもターゲットとして考慮した作品構成。対してサロンシネマの1と2は、鷹野橋という、ちょっと繁華街というか中心から離れ、オフィス街からも外れたところにあって、こっちはミニシアターというにはちょっと座席数も多く、スクリーンも大きい劇場になっています。こちらの作品ラインナップはシネツインほどはっきりした傾向もなくて、『麦の穂をわたる風』と『パプリカ』を同時期にやってたり、シネツインの二館からのムーブオーバーがあったりという感じ。三日間とかの超限定上映でマニアックなのをやったり、今はエイリアンvsプレデターをやってたりと、むちゃくちゃやがな。
 特筆すべきは、この系列の映画館は4館とも、シートがいい。特にサロンシネマのソファのようなシートは最高。足を投げ出して体勢を崩して見るのもよし、きちんと背筋を伸ばして見るのもよし、靴を脱いでシートに足を上げて見るのもよし。
 で、このサロンシネマというところが、不定期でフィルムマラソンをやっており、特に例年大晦日には年越フィルムマラソンをやっている訳で、それがこの年末年始は『ロード・オブ・ザ・リング』三部作一挙上映というものだった、と。しかも三部作全部スペシャル・エクステンディド・エディション。

  • 『ロード・オブ・ザ・リング』  208分 ちなみに本来の劇場版は178分
  • 『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』 223分 ちなみに本来の劇場版は179分
  • 『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』 250分 ちなみに本来の劇場版は201分
て、上映時間合計683分、11時間38分てwwwwちょwwww

 前に、DVDで『王の帰還』が発売された時に東銀座の東劇(だったかな?)でやったのは見に行ったんだけど、最初の二作のSEEを劇場で見るのは初めて。
 まぁ31日の昼間まで仕事していた訳で、一睡もせずに全部見通すのは不可能だろうとは覚悟の上で、仕事を終えて帰宅、食事してシャワーをさっと浴びたあと、紅白歌合戦のAKB48とリア・ディゾンタソとしょこたんのメドレーを見終え、しょこたんの健闘ぶりに心で拍手を送りつつ家を出て自転車で映画館へ。途中コンビニで缶コーヒー2本とスナック菓子とチョコレートと「眠眠打破」とかいうドリンク剤を仕込んで到着すると、すでにほぼ満席で最前列以外は5個くらいしか空席がない(完全指定席制)。まぁ最前列で見るのは嫌いじゃないんで最前列のほぼ真ん中を確保して劇場内を見渡すと、俺みたいなお菓子とコーヒーなんてのはいい方で、コンビニ弁当持込がいたり、自家製弁当を持ち込んでいる家族連れの剛の者までいるぞおい。
 まーこれがこの映画館のオールナイトフィルムマラソンのスタイルってことなんだろうかね。ここはクッションや座布団、ひざ掛け毛布なんかも大量に用意されていて「ご自由にお使いください」という映画館なので、飲食物持込禁止のシネコンなんかと違って、自由にご覧ください、寝るのも食事もどうぞご自由に、という感じで大変よろしい。

 SEEを通しで見て感じたことは、やっぱりこの映画は、俺にとっては「完璧な映画」だなぁ。『七人の侍』『風と共に去りぬ』『ゴッドファーザー』『ローマの休日』に匹敵する。加えて、「大好きな映画」。『スターウォーズ(新たなる希望)』、『レイダース三部作』『バック・トゥ・ザ・フューチャー三部作』『ストリート・オブ・ファイヤー』『シルバラード』『ダイハード』(なんかハリウッド映画ばっかりだな)に匹敵する。
 途中、一作目の終盤、モリアの洞窟に入るあたりでちょっと記憶が飛んだのと、TTTでメリーとピピンをアラゴルン一行が追うくだりのあたり(最初に木の髭とメリピピが出会うあたりとか)でも記憶が飛んでいたのを除いて、ほぼ眠らずに見られたのはよかった。
 あと、一作目と二作目の間の休憩時間にちょうど新年になった時に、客席みんながクラッカーを鳴らして祝うとか、ロビーでぜんざいと日本酒が振舞われたりとか、お客さんの中に近所のショットバーの常連客をハケーンしたりとか、休憩時間に行われたジャンケン大会で系列四館で使える招待券をゲットしたとか、いろいろありました。

 ただね、翌日(元旦)、ほとんど眠ってしまった。俺も年だなあ。ということで今年の正月は、寝正月ならぬ「眠正月」orz

 昨年の夏に広島ロケをやっていることを知ってから、公開を待っていた作品です。
静かな、しかし訴えかけるものの大きい映画です。特に広島に住む者としては、身につまされるものが大きい映画でした。

 映画はタイトルが示すとおり、麻生久美子主演で終戦(被爆)から十数年経った広島を舞台にした『夕凪の街』と、田中麗奈主演で現代の東京(中野)と広島を舞台にした『桜の国』の二つのエピソードからなる、連作という体裁を取ったものになっています。
監督は佐々部清監督。様々な監督の下で長い助監督経験を積んだ後に監督となった、職業監督です。寺尾聰主演で日本アカデミー賞を始めとして世間で高く評価された傑作『半落ち』が代表作、でも俺はそれよりその前後に撮られた『陽はまた昇る』(VHS規格を作ったビクター社員を描いた、いかにも東映らしい企業実録モノ)、『チルソクの夏』(今をときめく上野樹里の映画デビュー作ですよ)の二本が好きなんですが、一方でがっかりするような駄作も撮っている人だけに、過大な期待は禁物、という感じで観にいきました。
 結論から言うと、あまりにも強力な原作(手塚治虫文化賞新生賞、文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞受賞など傑作・名作と名高い、こうの史代さんの同名漫画)に対して、映画人としてのプライドを賭けて独自のオリジナリティを打ち出そうとする余り饒舌になりすぎた脚本・編集・演出が、映画を見慣れた目には少々ウザい。そういう技術的な部分については、「映画ファン」としてケチをつけたくなるところが結構あったりもします。
 ただ、そういう批判をすることが、いかにも矮小でつまらんことに思えてしまうほどに、この作品の訴えかけるものは大きい。先にも書きましたが、広島に住む者にとっては特に大きい。
 だから、この映画についてはエントリを二つに分けます。いち映画ファンとしてのエントリと、広島に住む者としてのエントリ。

 まずは、「いち映画ファン」として。

俳優陣、とりわけダブル主演の二人が素晴らしい。麻生久美子がいいのは今に始まったことではないんですが、特筆すべきは田中麗奈です。重くて悲しい『夕凪の街』から一転、コミカルですらある『桜の国』の中でも、さらに狂言回しのような役回りであり、軽い芝居に終始しているんですが、ラストシーン、彼女の表情のアップからストップモーションでエンド・クレジットに入る、その時の表情。素晴らしいを通り越して「凄み」すら感じさせるカットです。不覚にも、劇中の涙にシンクロするかのように、こちらも涙が出てきてしまいました。
麻生久美子・吉沢悠 巧い俳優には、「演技派=どんな役を与えられても器用にその役になりきって演じてしまう」タイプの人と、「個性派=どんな役を与えられても俳優本人の強烈な個性の中に役を引き込んで演じてしまう」タイプの人がいると思うんです。前者は仲代達也や三國連太郎、中井貴一、もうちょっと若手でいうと吉岡秀隆や松山ケンイチ、海外で言うとケヴィン・クラインとかショーン・ペン、ウィリアム・ハート。そして後者は緒形拳、渡辺謙、松田優作、佐藤浩一、若手では木村拓也、窪塚洋介、松田龍平、海外では断トツでジャック・ニコルソン、ほかにショーン・コネリー、ニコラス・ケイジ。女優では前者が寺島しのぶ、宮本信子で、後者の典型は吉永小百合、松坂慶子といった感じでしょうか。
 田中麗奈は、デビュー作『がんばっていきまっしょい』があまりにもすばらしく、良くも悪くもあれでパブリック・イメージが固まってしまったというのがある種気の毒でもあったんですが、その後、演技の幅を広げようと(いや、どうかわかりませんが)様々な役にチャレンジしていましたが、元来、前述の「演技派=器用に役になりきるタイプ」の女優さんではなく、その個性的なルックスもあって、何を演じても田中麗奈になってしまう、というタイプなだけに、デビュー作の『がんばって~』を除くと、本当にハマる役に出会えていないという感じだったのが、今回、やっと代表作といえる作品に出会えたのではないでしょうか。
 狂言回し的な役回りで、ストーリーだけを追って映画全体を見ると、明らかに麻生久美子のほうが印象が強い筈なのにも関らず、ラストのワンカット(実際撮影も最後だったらしいです)で、それまでの『夕凪の街』パートと『桜の国』パートの両方、全てを受け止めた彼女の表情は、絶賛に値するものです。
 そのラストカットに繋がる、堺正章の芝居も素晴らしい。普段のテレビの司会などでみる、不必要にハイテンション(しかもあんまりおもしろくない、どころかちょっと不愉快にすらなる)な堺正章とは全然違った、どこかコミカルながらも抑制の効いた演技、そしてラストカットに繋がる台詞。
 俳優賛歌はこれくらいにして、映画そのものについても書いておきます。

 声高に「反戦」「反核」を騒ぎ立てる映画ではありません。『夕凪の街』パートは終戦から十数年後、つまり戦後十数年経っている広島が舞台ということもあり、被爆直後の惨状の描写は最低限に抑えられている、というよりも、無いに等しく、どうしても必要と思われる描写も抽象的な「絵」で示されます。主人公の皆実(麻生久美子)と母フジミ(藤村志保)が銭湯にいるシーンで、他の客を含め、体のどこかしらに火傷の痕が残っている、というのが、唯一、直接的な描写でした。
田中麗奈・中越典子  その銭湯のシーンと対照的に描かれるのは、『桜の国』パートにおける、田中麗奈と中越典子のラブホテルでの入浴シーンです。ここで二人によって歌われるプリプリの『ダイヤモンド』は、『夕凪』パートで歌われる50年代のヒット曲との対比にもなっています。このあたり、被爆直後の惨状描写だけは徹底して抑制しておきながら、それ以外の部分では能弁すぎるほど能弁です。  現代の中野と広島が舞台となる『桜の国』パートでは、当然ながら、直接的に被爆に関する描写は皆無です。前述の通り、このパートの主人公でありながら映画終盤まで狂言回し的役割にある七波を演じた田中麗奈の軽妙な演技、そして、会社を定年退職する年齢に達した、皆実の弟である旭(七波の父であり、つまり皆実と七波は伯母と姪になる)を演じる堺正章の淡々と抑えた演技で、『夕凪』よりもさらに軽い仕上がりです。
 持っているテーマの重さを考えると、敢えて被爆直後の惨状描写を抑えたのは正解でしょう。
 ただ、気になるのは、それ以外の部分が、過剰に能弁なこと。たとえばあまりにも主人公二人、皆実と七波の独白が多い。それは実際に話すシーン、たとえば『夕凪』での、原爆スラムのある本川沿いのアカシヤの幼木の下で、皆実が思い人である打越さん(吉沢悠、広島弁上手だね)に語る場面であったり、『桜』での、夜行バスの中、隣席で寝ている幼馴染の東子(中越典子)に語るシーンなどです。さらにそれよりも、ナレーション的に入る、本当の意味での独白。もうちょっと脚本がどうにかならなかったのか、というくらいくどい。小説でも舞台演劇でもないんだから、ここはセリフ(言葉)に頼りきらないでほしかったですね。このくどさが、大袈裟に言えば映画を一段も二段も落としているのではないかと。
 映画を見て、原作が読みたくなって、早速買ってきて読んだのですが、独白が多いのは原作もそうなんですね。ま、だからこそ映画では別の表現があったんじゃないのか、とは思うんですが。
 映画独自の表現を追及した結果、原作と変わったところといえば、皆実が亡くなるシーン。原作ではほとんど白紙のコマの連続であるのに対して、映画では、ちょっとやりすぎじゃないかというくらい「お涙頂戴」なシチュエーションになっています。ここでは吉沢悠と、青年時代の旭を演じる伊崎充則が、麻生久美子の見事な大芝居をしっかり受け止めており、脚本的にはベタといえばあまりにベタなんですが、そこを俳優の力技で「ベタでも泣ける」ものに仕上げているのは見事です。
逆に、映画ならではの工夫が上手く作用したのは、小道具の使い方です。印象深かったのは、姉から弟の嫁に受け継がれ、さらにその娘に受け継がれた髪留め。さらに『夕凪』の導入部で出てきたあと、『桜』の中で出てくるワンピース。そしてラストの田中麗奈の名演に直接繋がる小道具として使われた一枚の写真。これらの小道具の使い方は映画版独自のものであり、特に写真は、こちらの涙腺を開放するのに大いに役立っていました。

 総じて、原作の持つ、ある種「秘すれば花」的な、読み手の想像力に頼る部分を、映画ではかなり分かりやすい形で構築し直しているだけに、観客に訴えかけるテーマは、よりはっきりしたものになっていると思います。そしてそれはあまりにも広島に住む者の心に深く突き刺さってくるものだったんですが、それはまた別エントリにて。

 世界最速のインディアン(公式サイト)

 またしても「世間の評価がどうであれ、俺はこの映画好きだ」という映画。
ソニー・ピクチャーズでロジャー・ドナルドソンが監督っていう部分だけを見ると、
「はいはい乙。ハリウッドの量産エンタメムービーの一つですね」
となるところですが、ちょっと待ったぁ!

世界最速のインディアン
 サー・アンソニー・ホプキンスが、出会う人がみなそのキャラクターに魅了されてしまう愛すべきスピード狂の老人、バート・マンローを怪演しています。言うまでも無くハンニバル・レクターとは全然違うんだなこれが。さすがサー。
 そして監督がロジャー・ドナルドソン。
 彼はこの映画の製作と脚本も担当しています。
 いろんな記事を読むと、この映画ができたのは、私費まで投じたドナルドソンの情熱があってこそだったということがよくわかりますが、それがちょっと意外でした。
 ドナルドソンのフィルモグラフィをざっとおさらいしてみると、とてもこんな「個人的にこだわりの小品」を撮る人には思えませんもん。
 『カクテル』は当時売り出し中のトム・クルーズにフレアテンディングをやらせるというスター映画。
『追いつめられて』はケビン・コスナーの隠れた傑作サスペンス。
『ゲッタウェイ』は監督:ペキンパー、脚本:ウォルター・ヒル、主演:マックイーンの大傑作をアレックス・ボールドウィンでリメイクしたトホホ作。
爆笑必至エロSFの迷作『スピーシーズ/種の起源』、CGによるヴィジュアル・エフェクトとピアーズ・ブロスナンだけが見ものだった火山パニック映画『ダンテズ・ピーク』、再度ケビン・コスナーと組んだ外交・政治サスペンスの佳作『13デイズ』、コリン・ファレルとアル・パチーノの二枚看板『リクルート』はCIAの内幕暴露的な話ありーの、世代の違う二人によるバディ・ムービー的要素ありーの、『追いつめられて』にも似たどんでん返しもありーの、という欲張りな良質エンタテイメント。
ハリウッドのシステムの中で、与えられた予算の中で、企画の趣旨に則って過不足無く映画を撮る、いわゆる職業監督。これがドナルドソンのパブリック・イメージ。
ただ、そんな職業監督が、自分の撮りたいと思う映画を何の制約もなしで撮った映画。っても無論、予算的な制約は大いにあったことは、劇中のハイスピード走行中を描くヴィジュアル・エフェクトがお粗末だったことからも窺い知れますがね。
そして、脚本も書いているドナルドソン自身の「職業監督」としての卒のなさが、自身の一途な思い入れだけが空回りする自己満足的な映画になることを見事に防いで、愛すべき一人の老人を主人公としたコミカルなロード・ムービー、そして愉快なサクセス・ストーリーとして成立させています。
たとえばバートがアメリカのボンネヴィルを目指してニュージーランドを発つ時、誰も老いぼれの酔狂に付き合おうとせず見送りがいない中、かつてビーチでバートと競ったことのある暴走族が見送りに来るシーン。
アメリカに渡ってからの、ヒスパニック系の中古車ディーラーやゲイのモーテル受付係、原住民の老人、荒野の未亡人、休暇で帰郷しているベトナム従軍中の若者、そしてボンネヴィルで出会う大物レーサーらとの間に芽生える友情、愛情・・・いちいち娯楽映画のツボをきっちり押さえ「見る側を退屈させまい」という目的に沿って人物やエピソードが形作られています。
個人の情熱で、作家の作りたいものを作っているんであっても、決して観客をおろそかにしない姿勢はお見事。

 相変わらず、専門用語になると陳腐な誤訳が目立ってウザくって仕方が無い戸田奈津子ばあさんの字幕が多少気になるものの(字幕監修にモリワキが付いていながら「アクスル」と「アクセル」を間違えるたぁ、どういうこった)、実にいい映画を見せてもらいました。

ドナルドソンやるじゃん!そして何よりアンソニー・ホプキンス万歳!

せっかく東京に行ったんだし、広島じゃまだ見られない映画とか、広島じゃ今後永遠に見られない映画とか、とにかく見よう、ということで3本見たのが以下。

虹色★ロケット
下北沢にある短編映画専門の映画館、短編映画館 トリウッドにて。
観終わったあと、すごくニュートラルに清清しいというか、必要以上に感情を動かされるわけではなく、でも観てよかったと思わせられる、いい映画でした。

芸術的銀河科――
かつて生徒が作ったそのおかしな学科に、不思議な転校生がやってくる。名前はユカ。
持ち前の明るさでユカはすぐにメンバーの環に溶け込んでゆく。
薬物依存やイジメ、恋人の死。様々な過去を生きてきた仲間たちの中で、自殺未遂をしたミナミだけが、未だに"それ"を乗り越えられずにいる。
そしてユカもまた、難病に冒され、壮絶な過去を抱えていた。
誰にも変えることが出来なかったミナミ<死にたい者>の想いと、全てを捨てる決意を固めたユカ<生きたい者>の覚悟が衝突する…
果たしてその先に待つものとは?
「生」と「死」、どちらにも真っ正面からぶつかってゆく7人と、それを見守る顧問のトムやヤブ医者ハルカ、意地悪な神様。
厳しい冬を優しくあたためるような、それぞれの命の物語。
「広島じゃ今後永遠に見られない映画」だろうねこれ。
同じ学校に通う高校生が、学校からの依頼で撮影した、いわば「教材」。
完全に自主映画です。しかも、高校生の映像制作集団が作ったといっても、ポイントは「学校からの依頼で」という点。
つまり、若い世代のクリエイターが作ったものなのに、これは大袈裟に言えば「体制側」からの要請で作ったものであって、ありがちな反体制とかそういう部分は皆無。
世間では大層な褒め言葉が飛び交っていますが、所詮はプロではないアマチュア集団が作った作品だけに、技術的に云々するのは完全にお門違いでしょう。
でもこの映画の持つテーマ、まあそれは「生きること」「命の大切さ」なんだろうけれども、それをこれだけ綺麗にまとめた脚本は見事でしょう。果たしてこの手垢にまみれたテーマを、ちゃんとエンターテイメント性を含ませながらも、これだけきっちりとまとめられる「プロの」脚本家がいるでしょうか?
ごく最近、渡辺文樹の『御巣鷹山』(ひどい映画!)を観て酷い脚本に幻滅させられただけに、余計そう感じます。って比較対象が酷すぎるか。
しかも時折劇中に飛び交う「セリフ」の秀逸なこと。

「生きる覚悟は、できたか?」

こんなセリフを、何の衒いも無く使えてしまい、それが劇中でイマドキの高校生に喋らせても全く違和感がないキャラ造形はお見事としか言いようがなく、もしかしたらこの脚本は奇跡の賜物か。。。
主演の高校生7人、芝居が自然とか不自然とかではなく、脚本、キャラ造形が見事すぎて、芝居しているという状態じゃあないんでしょう。殆ど素。だがそれがいい。女性陣が特に素晴らしい。

長州ファイブ
シネマート六本木にて。
こんなとこに映画館あったっけ?ちょっと離れただけでガラッとかわっちまう、それが東京。
近代日本の礎となった、長州藩から英国へ密航した五名の若者、即ち井上聞多(後の馨、初代外務大臣)、遠藤謹助(大阪造幣局局長)、伊藤俊輔(後に博文;初代内閣総理大臣)、野村弥吉(後の井上勝;国内初の鉄道敷設に尽力、初代鉄道局長官)、そして山尾傭三(現東京大学工学部を創設、国内初の聾唖学校設立に尽力)。
五名の中で最も知名度が低いと思われる山尾傭三を主人公に据えたことが、物語の自由度を高めたと言えましょう。
そしてこの映画、なにがいいといって、松田龍平。
『御法度』で出てきた時は、なんだか生っ白くて気持ち悪いなあ、親父さんの持つ男っぽさが全然ないや、と思ったんですが、いつのまにか親父の幻影などどこ吹く風とばかり、実にいい役者になりました。
彼が演じた、形の上では武士を捨てつつも心情的にはサムライであり続けた山尾傭三の潔さ、美しさ、男臭さ。
そのキャラがこの映画を支えているし、ひいては松田龍平自身がこの映画を支えていると言えます。『悪夢探偵』も観にいこうっと。

ユメ十夜
シネマスクエアとうきゅう。
単館系の雄として名を馳せたのも今は昔。。。新宿近辺にもシネコンができたり、古い劇場もリニューアルしたりすると、あの妙に前後に長いレイアウトといい、酷い音響といい、もうその役割を終えたと言っていいんじゃないですかね。
あえて「シネマスクエアとうきゅう」を名乗らず、「新宿ミラノ4」でいいじゃんか。
劇場の話はともかくとして。
原作も漱石の作品としては極めて異色ですが、これを10人の映画監督で10分程度の小品を集めたオムニバス。
大御所市川崑から、異端実相寺昭雄(合掌)、Jホラーの旗手清水崇、西川美和とか山下敦弘とかの新進気鋭の作家たちまで、10人の作家のイマジネーションを無心で楽しむ映画。そして、誰それの作品がいいだの悪いだの言い合う。
シリアスにならず、とにかくそういう楽しみかたをする映画で、あまり各作品について細かく考え詰めるものではないです(実際、展開がまったくもって意味不明な作品も多々あり)。
ただ、やっぱりもうちょっと各エピソードを細かく見直したいですね。ということで広島で公開されたらもう一回観ようそうしよう。

崩壊した家庭の再生とか、身近な死を通して思春期の少女が生きる意味を考えるとか、そういう部分は確かにある映画です。で、そういう視点で見ても、これは極めて優れた映画だと思いますし、世間的な評価もそういう部分に集中するでしょ。
ある事件をきっかけに、崩れかけていた家庭が再度結束していく過程を描いた映画。「社会も家族も病んでいる現代」という時代性も持った、社会性の強い映画とも言えます。
家族みんなが何らかの問題を抱えて生きており、その問題故に自殺未遂をしたり、約束された将来を敢えて棒に振ったり、家を出て行ったり、仕事を辞めたりしている家族。そしてそんな中で唯一「普通に」生きている主人公。

※注意※ この先微妙にネタばれあり。
ちょっとでもこの映画に興味がある人は、まず劇場に見に行きましょう。
それからこれを読んでくだちい。

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ざっと見たものの中で、一番良かったのは、禿げしく月並みですが『硫黄島からの手紙』でしょう。
前作『父親達の星条旗』よりも考えさせられるところが多かった映画だったのはやっぱり日本人だからかもしれませんが、NBORやLA批評家協会賞をバカスカ獲っているところからも、こっちの方がアメリカでの評価も高いんですかね。
明らかに「反戦映画」だけど、決して声高にイデオロギーを主張するものではなく、なんというか「戦争は愚かなものだ」と心底感じさせるものでした。デートには向いていませんが、みんなに見てもらいたい作品ですね。

『犬神家の一族』
ミスキャスト。誰がって、松嶋菜々子。身長が高すぎるっていう部分もそうだけど、何よりもちょっと年齢が・・・あと5歳若ければ、身長云々はさておき、それなりにはまっていたかもしれませんが。
ただ、これは特に20代以下の人は見るべきでしょう。所謂撮影所時代の巨匠の最後の一人、と言ってもいい市川崑の大作です。
出演者がどんなに大御所だろうと、製作サイドが何を言おうと、この作品は市川監督の作品。プロデューサーの映画ではなく、『監督の映画』なんです。
各種媒体に出ている撮影中のエピソードなどを読むと、もうこんなわがままを通せる監督は、この人が最後なんじゃないかと。
松竹には山田天皇がいますが、どちらかというと山田洋二が役者の芝居を写しとるタイプなのに対して、市川崑は『映像作家』。
今作でも徹底的に影の演出にこだわった形跡が見て取れます。
今後、こういう日本映画はもう作られないかもしれません。
その意味で、若い人はリアルタイムで「撮影所時代の最後の巨匠」が「拘りぬいて作った大作」を見られる最後の機会、かもしれませんから、是非見てください。

『007/カジノ・ロワイヤル』
ダニエル・クレイグがボンド・・・っていかがなものか、と思ったけど、この作品の設定は殺しのライセンスを取得する前の話であるからして、多少粗野な感じがするのも「若さゆえ」ということで。
純粋な正統派スパイ・アクションとしても上出来、007の水準は無論軽くクリア。
ただ、このシリーズ、ボンド役が替わった節目の作品は今までも水準以上のものだったから、今後に過大な期待はしないよ。

『パプリカ』
今敏監督の新作は、今までの彼の作風を踏まえた上で、最もエンタテイメント色が強いものですね。
脚本、作画ともにかなりレベルの高いものになっており、このレベルの作品が普通にスッと公開される日本という国、所謂ジャパニメーションはまだまだ世界トップレベルだと関心します。
ただ、個人の夢が現実世界を侵食するという話(正確にはもうちょっと複雑ですがまぁ思いっきりはしょって言うとそういうこと)については、もうマトリックスとかで使い古され過ぎたアイデアで、正直筒井の原作がいくら93年の発表だからって、今の世に映像化するとしたら、ちょっと手垢にまみれた感は否めないのが残念っちゃ残念ですが。
声優に、昨今の劇場用アニメーションでは当たり前になっている「俳優」ではなく、専業の「声優」を使っている点もいいですね。林原めぐみの代表作の一つと言えましょう。言っちゃあなんだが、「俳優さん」たちに、この映画での見事な二役は務まりますまいて。
お勧めできるのは、20代後半以上で、非ヲタの大人の人で、かつアニメに変な抵抗感が無い人(ヲタは黙ってても観にいくでしょ)。

『NANA2』 世の中には3種類の映画があって、見る価値が「ある映画」「ない映画」「見ない方がよい映画」・・・これは残念ながら「見ない方がよい映画」ではないかと。
何より、一作目の核ともいえた宮崎あおいの不在が痛すぎる。市川由衣の力不足は『ROUGH』で既に明らかだったんですが、こちらでは一作目で宮崎が作り上げたハチというキャラを殺してしまい、かといって自分なりの新しいハチを提示することも無く終わってしまいましたね。
東京には、全国から若い子が集まっています。その若い子たちは、決してみんながみんな「東京で一旗あげてやる」みたいな野望を持っている訳ではないんですが、動機はどうであれ、一旦あの大都会に住み着いてしまえば、あそこで生き続けるために、みんな頑張らなければいけません。
身を持ち崩すのは簡単なんです、東京では。いくらでも誘惑もあるし、非道徳的なことに手を出すのも容易な街です。
でも、そうはせずに、自分のできることを、みんなが自分なりのプロ意識を持ってこなしていき、それで生活している若い子たち。
前作は、そういった若い子たちにとって、共鳴できる部分が多い作品だったのではないかと(俺はもうそういう歳じゃないけどね)。そして前作の持つそういった要素は、ハチというキャラに依った部分が多かったんではないかと。
そのハチを、市川が完全に殺してしまいました。そして、前作の持っていたそういう要素も死にました。

『シャーロットのおくりもの』
動物の擬人化映画が大好きなんで、これは欠かせません。
豚の映画というと、ジョージ・ミラーの『ベイブ』ですが、これを『ベイブ』の二番煎じと言う無かれ。
むしろ『ベイブ』がこちらの(原作の)影響を受けてるんじゃないのか、と。
この原作の絵本は俺も子供の頃に読んだ記憶があるけれど、子供向け絵本で、死(と生)をきっちり捉えたものとして、評価されているもののようです。
話そのものは当然その絵本が原作なので、子供向け。でもまず声の出演が超豪華。ジュリア・ロバーツ、ロバート・レッドフォード、スティーヴ・ブシェミ、キャシー・ベイツ。加えてダコタ・ファニングタソだし、これだけのネームバリューを持つ人が揃ってるんだから、子供連れのおとーさんおかーさんも楽しみましょう。

広島ではバルト11の中の1スクリーンにおいての、ごく短期間の上映(普通に2週間、その後一日一回夕方の上映が一週間)で、世間的に盛り上がってきて新聞記事などでも取り上げられはじめた頃には上映が終了していたという『時をかける少女』
公開第一週は劇場内がガラガラでしたが、公開第二週にもう一度行くと超満員、そしてその後間もなく上映終了という、映画館にとっては笑うに笑えない公開状況だった訳ですが、どうやら配給元もここまでのヒットは予想しておらず、
「ヲタ向けに劇場で短期間公開した後はDVDで稼ぐさ」
程度の認識で、上映用のフィルムも少量しか用意しておらず、拡大公開しようにも物理的に不可能だったということのようです。
さて、blogを始めとしてネット上での大盛り上がりも一段落してきたところで、ようやく広島にもフィルムが戻ってくるようです!

時をかける少女('06日/1h39/カラー/ビスタ/デジタル/角川ヘラルド映画)
11月5日(日)~10日(金) サロンシネマ (鷹野橋)

たったの6日間だけとはいえ、これは朗報です。
おそらくこれを逃すと、もう広島ではスクリーンで見られないと思われます。広島在住で未見の人は見に行きましょう。既に見た人ももう一度、いや何度でも行きましょう。

と、それはともかくとして、国内のweb上での高評価にとどまらず、一般紙(誌)や映画専門誌での高評価、さらにシッチェス映画祭に出品されてアニメーション部門最優秀長編作品賞を受賞したりと、当初の配給会社の思惑を越えて、この作品、どんどん一人歩きしているようです。

ときかけWebマーケティングの有効な手段の一つとして、blogを使ったマーケティングが注目されて随分経ちます。
blogマーケティングについてはIT mediaこのあたりに簡単にまとめられていますのでご参考までに。
俺は以前に勤務先でインハウスのコンタクトセンター立ち上げに関った際に、所謂CRM(エリック・コマスがやっているマネジメント会社のことではない)に関しても一通りの学習はしたつもりです。
その時の実感を踏まえると(その頃はblogマーケティングだのCGMだのなんて話はありませんでしたが)webとかネットという手段を使って顧客層の開拓を図ったり、既存顧客とのリレーションを保ち続けるなんていうのは、俺自身は、幻想に過ぎないのではないか、と。
だから先にリンクしたIT mediaに書かれているようなマーケティング手法も同様であろう、と思ってたんですが・・・この『時をかける少女』などは、一見するとblogマーケティングが成功した典型とも言えます。
実際、公式サイト以外に「公式blog」を作り、トラックバックは基本的にご自由にどうぞ、ってな感じでやっていますし、俺自身のこのblogも、『時かけ』のエントリに対してついたトラックバックの数も多く、また、公開当時は『時かけ』関連の検索ワードでここに来る人も多かったようです。
そのトラバを辿ったり、そのまた先のblogへ行ったりして『時かけ』関連のレビューを読むと、まさにCGMを使ったマーケティングの成功例としての典型とも言える状況が生じているのが判ります。

最初に『時かけ』を取り上げたこのエントリでも書きましたが、配給元の角川ヘラルドは、最初はこの映画を、コアなアニメオタク、所謂「アニヲタ」だけをしっかり取り込んで、堅実に儲けようとしていた節が伺えます。
何よりも、オフィシャルサイトに寄せられた推薦文を書いている人たちが、

村上隆
現代芸術家。作風のルーツはアニメにあり、と自ら公言し、実際、その作品は、秋葉原中央通沿いの小汚い雑居ビルの中にショップを構えるヲタ系ショップで売られている美少女アニメ系フィギュアとどこがどう違うのか、芸術的にシロートの俺にはよくわからない。
乙一
気鋭の若手ミステリ作家であるが、自身そのルーツはラノベ(ライトノベル)にある、と明言。また実際デビューはラノベ系作家としてであった。
杉浦由美子
著書に『オタク女子研究-腐女子思想大系』がある。
樋口真嗣
『日本沈没』『ローレライ』の本編監督として名を下げつつあるが、特撮ヲタの聖典「平成ガメラ三部作」で、それまでの特撮とかSFX作品に見られなかった斬新な画作りを見せ、日本特撮界の寵児とされていた時代もあった。
押井守
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の監督として名を上げ、その後『機動警察パトレイバー』『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』などで、所謂ジャパニメーションの第一人者として国内はもとより、ジェイムス・キャメロンやマトリックスのウォシャウスキー兄弟など海外の第一線のクリエイター達にも大きな影響を与え続けているアニメーター/演出家。
と、こんな具合。どこをどう見ても、この面子が書いた推薦文が、まっとうな生活を送っている一般の人たちに広告的訴求力を発揮するとは思えません。
非ヲタの一般客なんて端から当てにせず、ひたすらアニヲタだけを取り込もう。いや典型的な「アキバ系アニヲタ」だけじゃなくて、池袋系腐女子群もしっかり取り込んで、ヲタ属性からきっちりお金を巻き上げましょう、という努力だけは痛いくらい感じましたがね。

ところが。

おそらくはYahoo movieのユーザーレビューで長期に亘って高得点を維持し続けたのが導火線となったと思われますが、公開から程なく、各都市で単館公開された劇場には、当初の予定になかった「一般の人たち」が押し寄せ、さらに観にいった人からの口コミもあり、遂には連日満員で入場を制限していたような状況が生まれた訳です。
公開が中学・高校の一学期終了前で、「学校での口コミ」が伝わりやすい時期だったこと、そしてその後に夏休みに入り、就学年齢の若い子たちが映画館に行きやすい状況になった、というのも要因として大きかったかもしれません。
同時期に公開されたジブリ『ゲド戦記』のように、テレビや出版を巻き込んだ、国家を挙げた夏の一大イベントでもやるかのようなキャンペーンなど一切やらずに(つまり宣伝費をほとんど掛けずに)こういう状況が生まれたことは、まさにCGMマーケティングの理想の公式に見事に則ったもの、と言ってもいいんでしょうが。。。
ただ、角川ヘラルドが当初からそういうマーケティング戦略を採っていたのか、というと、先に挙げた公式サイトの推薦文を見る限り、そして公開規模や用意した上映用フィルムの本数を見る限り、そうは思えません。
製作サイド・配給サイドが当初からCGMマーケティングを使おうとした訳ではない以上、厳密には「CGMマーケティングの成功例」とはいえないんではないでしょうか。せいぜい、「CGMマーケティングの可能性を否定しない材料」程度ではないかと思いますね。むしろ「CGMマーケティングは偶発的にしか成功し得ない」例、とも言えるかも。ってのは言いすぎか。

そもそも、俺を含むbloger達は、誰に頼まれて『時をかける少女』をプッシュしたわけでもありません。
作為的にCGMを使おうとしても、CGMに乗っかりそうな人たち(CGMの"C"、読み手であれ書き手であれ)は、巨大掲示板サイトやmixiなんかの活用により、メディアリテラシーが相当高くなっており、そういう作為的な盛り上げをしようとしても、作為の存在を漠然と読み取る力を持っている、と思うんですね。

ならば、何故、『時をかける少女』は(表層的に見て)CGMマーケティングの成功例たり得たのでしょうか?

結局は、作品(コンテンツ)そのものの質が、極めて高かったから、に他ならないでしょう。
延々長文を書き続けて導き出された結論が、至極当たり前のものであることに、書いている俺自身がうんざりしていますが、事実だからしょうがない。
だってそうでしょ。『時かけ』が素晴らしい映画だったからこそ、観にいった人達はYahoo movieで高得点をつけ、blogerや個人サイト製作者はこの作品を称える記事を書き、週末に映画にでも行こうと考えている人たちが周囲にいたらこの作品を薦め、結果として一般紙(誌)ですら無視できないような状況を生んだ、ということです。

製作サイドは、マーケティング戦略なんてこと以前に、質の高いコンテンツを作り出すことにこそ腐心すべきで、逆に言うと、良質のコンテンツさえあれば、変に宣伝戦略に凝らなくても、自動的にCGMマーケティングの仕組みが、そのコンテンツを世間に広めてくれるという時代になった、とも言えます。
そう考えると、巨大資本の下で製作される作品ではなく、むしろ、良質だけれども作って世に出すだけで精一杯、というような作品が、興行的に正当な結果を得る事ができるという、20世紀にはあまり起こり得なかったことが普通に有り得る、いい世の中になってきた、とも言えるかも。

フラガール(オフィシャルサイト) (公式blogはこちら
少なくとも今までに公開された今年の日本映画の中では、個人的な最高傑作と言いきれます。

フラガール
監督は李相日(り・さんいる)。故・今村昌平が設立した日本映画学校の卒業生であり、卒業制作の作品がPFFのグランプリを獲得、という、この種の娯楽商業映画を手がける若手としては微妙な経歴の持ち主。
この人の映画は『スクラップ・ヘブン』しか見ていませんでしたが、これが、出ている俳優達は、気鋭の映画作家による作家性の強い映画に出演することで自らのフィルモグラフィにバリューを得ようとし、一方の監督は監督で、加瀬亮・オダジョー・栗山千明といった決して万人受けはしないアクの強い個性派若手俳優たちを多くキャスティングすることで、映画そのもののエキセントリックさを加速する、という、今世紀のミニシアター系邦画にありがちな、なんとも独善的な(そしてあまりおもしろくない)映画だったというイメージしかありません。
そんな監督が、ここまでに見事な純娯楽映画を作るとは。正直、見くびってましたすいません。

俳優陣、特に蒼井優と松雪泰子がいいです。
蒼井はもう日本の若手女優の中では頭一つ抜けていると言える存在ですが、この作品でも見事な仕事をしています。
以前、「宮崎あおい・香椎由宇・堀北真希・沢尻エリカ」の四人を、この年代層のトップ4みたいな感じで書きましたが、考えてみたら(子役出身の宮崎は別として)蒼井はキャリアが長いとはいえ、この四人と同じ年代だということに今更ながら気がつきましたが・・・それにしても蒼井を含めた五人の出演作の公開ラッシュですなあ。
松雪泰子は、彼女のいままでのパブリック・イメージとちょっとズレた役をやっているんですが、粗暴だけど人情味溢れるはぐれ先生役を、これも見事にこなしていました。彼女の表情に、何度か涙が・・・
松雪泰子
でも、俳優陣に頼っただけの作品ではなく、何よりも脚本の構成というかドラマの組み立てが見事。
脚本は監督とは別の、ベテランシナリオライターだろ、と思ったら、ラストのクレジットを見たら(共同執筆ではありますが)監督が書いているんで、またびっくり。
ストーリーの大筋は、石炭から石油への産業構造の変節に伴い斜陽化が著しい常磐炭田が、炭鉱から出る温泉を利用して、『常磐ハワイアンセンター』を設立する、って書くと、『プロジェクトX』みたいなんですが(実際、そういう方向で見ても楽しいんですが)、決して「実話の持つ重み」だけに頼ったものではなく、きっちり作劇された、見事な娯楽作です。

「フラダンス」のイメージというか、なんでも、フラダンス、というのは正しい表現ではなく、「フラ」という言葉そのものに「ダンス」の意味合いが含まれており、単に「フラ」と言うのが正しいんだそうですが、スティールギターののんびりした音にあわせて手をゆらゆらさせながら腰をゆっくり左右に振って踊るものをイメージしていていましたが、そんな先入観が、序盤に松雪泰子が見せるダンスで打ち砕かれます。
そして映画的に最も盛り上がる、ラスト、竣工なった常磐ハワイアンセンターの晴れ舞台で、フラガールたちが踊るフラ。
そこに到るまでに周到に張り巡らされた、ガールズ一人ひとりの背後にあったドラマ。そのいろんなドラマを見てきているからこそ、ラストでフラの群舞を魅せるフラガール一人ひとりに限りない思い入れを感じ、エモーショナルかつパーカッシヴなサウンドの高鳴りと爆発的なダンスに、強いカタルシスを感じることができたんですね。
一人ひとりのダンサーたちが織り成す群舞、それぞれの背中に背負ったそれぞれのドラマが織り成す、まさにシンフォニックに構築された脚本の構成は、見事としか言いようがありません。

俺の周囲では、昨年、『オールウェイズ 三丁目の夕日』を劇場で見損ねていて、その後の好評に慌ててDVDになってから見て「映画館で見ればよかった」と後悔した人が結構います。
まずはそいつらに、
「また後悔したくなければ、今のうちに『フラガール』見とけって。あ、念のためハンカチ忘れないでね」
と言って回る日々が続いています。

この世に生を受けてから今日まで、最も自分に影響を及ぼした映像作品といえば、それはやはり円谷プロのウルトラシリーズであろうことは、当の自分が一番よく知っているつもりです。
ええ、特撮スキーですとも。ゴジラだってガメラだって好きです。
特撮という言葉がいつしかSFXという言葉に取って代わられ、その後、「特撮」というのが、サブカル的「ジャンル」の一つとして認知される時代にもなりました(要するに「特撮ヲタ」というのが、ヲタクの一分類として成立したってことですが)。
でも自分にとって、特撮の原点とは、劇場映画中心のゴジラやガメラでもなく、等身大ヒーローの仮面ライダーでもなく、あくまでもウルトラマンでした。
ウルトラマンでジャンル系に目覚め、この種の空想モノに対する免疫ができていたからこそ、スター・ウォーズや未知との遭遇などの舶来SF映画にも抵抗なく入れたとも言えます。
ウルトラマンはリアルタイムで見たのは「帰ってきたウルトラマン」。それ以前のセブン、初代マンは年齢的にも再放送で見ていたクチです。
そんな自分が、「新シリーズ」として初回から欠かさず見続けたのが「ウルトラマンエース」。
初恋の相手は、何を隠そう、南夕子隊員でしたとも。ええ。
その後、タロウ、レオと見続けましたが、レオの後期あたりから徐々にシリーズそのものの持っていた勢いが衰えてきたのが、子供の目にも明らかになるにつれて、過去のシリーズを見たいという渇望に苦しむ日々(今みたいにDVDとかありませんし)。
幾度か訪れるウルトラのリバイバルブームの度に、再放送されるウルトラシリーズを見まくり、カードが流行った時は集めまくりました。
時が経ち、新しいウルトラマンが現れることもなくなって久しかったある日、「ウルトラマンティガ」という番組に出会い、過去のシリーズの流れから完全に独立した世界観の設定に一抹の寂しさを覚えつつも、その作品としての完成度の高さと、「新しいモノを作るんだ」という若い作り手たちの意気込みをストレートに反映したような新鮮な雰囲気に、新たな「ウルトラマン」との出会いを喜び、「ウルトラマンガイア」では、とても子供向け番組とは思えない大河ドラマ的なストーリー展開と、それまでにない高度な設定に、ヲタを離れた一人の大人のSFファンとしても満足させられ。

そんな自分にとって、まさに悶え死ぬほどに豪華な映画。

今年はウルトラ40周年という記念すべき年。
これを記念した新シリーズ「ウルトラマンメビウス」は、久々に、「光の国」と「ウルトラ兄弟」という設定を踏まえた新シリーズ、という触れ込みですが、残念ながら広島では、数週遅れ、しかも木曜日の真昼間という、普通の社会人が見ることは極めて困難な時間帯に放送されていますので、まともに見たことはありません。
それでも、このシリーズと連動した映画が作られている、しかも、あろうことか、

ハヤタ、モロボシ・ダン、郷さん、北斗さんが出演する!

・・・これを知った時点で即死。

スーパーマンがリターンしたとか、そういうの目じゃないから。てかどうでもいい。
ウルトラ兄弟が、その人間体を演じた俳優さん本人たち自身の出演で、見られる。
当時の変身ポーズもそのままに。

以下、もうまともなことは書けませんので、箇条書き。

  • 主役は現役ウルトラマンたるウルトラマンメビウス・・・の筈。でも我々「大きなお友達」のためのサービスシーンが満載。今の子供達にこの面白さが伝わらないのが歯がゆい!
  • 北斗さんは劇中、ちゃんと白いマフラーをしている!
  • 放送当初、すらっとしたモデルらしい長身で格好よかった郷さんが、一番ギャップがあったかも。でも佐伯日菜子版エコエコアザラクのお父さん役なんかで時々見かけていたので、ショックは少なめ・・・
  • 4人の先達のキャラが、ちゃんと老いてもなおそのままなのが素敵。特に北斗さん。末っ子らしい向こう見ずなところ。それを嗜める役回りのハヤタとダン。そして郷さんは、そんな両世代の間に入って、北斗に次ぐ熱いキャラ。
    ハヤタ「今度負けたら、どういうことになるか・・・」
    郷さん「勝てばいいんです!」
    ・・・いやあ最高!
  • 4人の兄弟の人間体のうち、北斗さんの登場シーンが最高。顔が映る前に、手のアップ。そこにはウルトラリングが・・・
  • ハヤタさんはともかくとして、あとの3人が、やっぱり放送当時のキャラからちゃんと繋がっている職に就いているのも素敵だね。
  • 「板野サーカス」全開!超獣「Uキラーサウルス」は、体中からベロクロンもかくや、というくらい無数のミサイル?を発射するけれど、それを迎撃したり避けたりしながら飛び回るウルトラ兄弟!
  • 他の兄弟が「シュワッチ」「ヘェアアァッ!」なのに、セブンの声がちゃんと「ジュワ!」になっているのも素敵。
  • ザラブ星人の声が、放送当時と同じ声優さんなのも感激。
  • エースがメタリウム光線を放つ時、ちゃんとバックスィングするのにも感激。
  • タロウのストリウム光線の時に体中がハレーションを起こすような効果、あれも再現されていた!
  • 巷では「ゾフィー最弱説」があるが、そんなことはなかったね。M87光線をじっくり見れた。
  • 地味ながら、ちゃんと帰りマンの「流星キック」が見られたのもいい!
  • 変身シーンの光学合成素材が当時のままなのが、これも感涙モノ。
  • そういえばタロウ=東光太郎役の篠田三郎さんが不参加なのはちょっと残念・・・
  • 俗に言う「平成三部作」、それに続く「Nプロジェクト」に出ていた俳優さんたちもゲスト的に出ていたのもよかった。40周年、先祖がえりと言っても、あの作品群がなければ、ウルトラシリーズが続いていたかどうか・・・
  • ある意味、本編以上に感動的だったのは、エンディングのタイトルバックで流れる過去の映像のフラッシュバック。ハヤタ、ダン、郷さん、北斗さんの4人だけでなく、MATの南隊員、そしてフジアキコ隊員!アンヌ!夕子さんが!
    いやあ、それにしてもアンヌことひし美ゆりこさんはかわいい。もういいお年だと思うけどね、なんてかわいいんだろう。
  • それにしても、「平成三部作」で全く新しい「人間・ウルトラマン」を描き出した後、「Nプロジェクト」を挟んで「ウルトラマンマックス」で、「タロウ」もかくや、というほどに「明るく楽しい」ウルトラマンに、いわば先祖がえりしたけれど、こんどはもっとストレートに、かつてのファン達のノスタルジーを刺激するという方策に出てきたのは、冷静に考えればどうなんだ、という気もするけど。
  • でも、作り手達は、これを作り始めた瞬間、そういう建前論はぶっとんだんだろうな。見るほうもぶっ飛んでるもんな。
  • 音楽がいい。殆ど全編に渡ってBGMが鳴り響いているという感じだけど、しょっぱなに鳴り響く勇ましいファンファーレから一転、宇宙での4兄弟と超獣の死闘での重厚な曲調、さらにマン、セブン、帰りマン、エースの各テーマを効果的に使い、クライマックスでここぞとばかり鳴り響く「ウルトラ六兄弟のテーマ」。音楽だけ聴いても、何度も死ねます。
  • 「ティガ・ダイナ・ガイア」は、脚本が素晴らしく、映画としての完成度も高かった。
    昨年春の「ULTRAMAN」の「ハリウッドのアメコミ原作と同様の手法で、誰もが知っている普遍的なヒーローを大人の鑑賞に堪えうるエンタテイメントとして蘇生させる」志の高さもすばらしかった。それらに比して、純粋に映画としてどうか、と言われれば、一段落ちるとしか言いようがないけれど、そういう尺度で測れるものではないし、測るべきでもない
    見終わって劇場を去る時に得られる満足感では、それらの作品はこの作品の足元にも及ばないと言っていい。
とりあえずもう一回観に行く。絶対いく。

いやー、今、映画の『電車男』をテレビで見ながら、2chの実況チャンネルに参加しようと思ったんですが・・・

流れ速すぎますよおまいら

やっぱ俺にとっては、モータースポーツ実況板くらいの人工密度で、実況対象専門のヲタが集いながら、濃度の高い盛り上がりに身を委ねる方が合ってますよ。

それにしても、やっぱりこれ、普遍的にいい映画だと思いますよ。
劇場に行ったときは、周りの客層が、20代前半のカップルばっかり(しかも超満員)だったので、驚いたものです。
だって、これってそもそも、ヲタ男と負け犬女のためのファンタジーだったんじゃないのかよ、って、その時は思ったものです。
嗚呼、こんな俄か作りのインスタント映画なのに、ほんとにいい映画だよなあ、これ。 興行面も含めて、これは2005年邦画界の奇跡だと思いますですよ。

ネットで見つけた、良レビュー。

細田守監督映画「時をかける少女」 見えない先を走っていこう

(東目堂さんのサイト「SLEEPYDOG」より)

映画の中で何度か出てくる印象的なフレーズ「Time waits for no one」。
ストーンズの名曲のタイトルでもありますが、劇中ではこのフレーズが理科室(化学実験室?)の黒板に書かれており、その下に(゚Д゚)ハァ?が出てきますが・・・。

既に広島では公開終了しており、これを劇場で見たくても見られない訳です。
幸いにして自分は2度、劇場に足を運ぶことができましたが。
いや広島はまぁまだいいです。地方都市では、公開すらされていないところもある訳で、2週間なり3週間なり公開されただけでもまだマシ。
東京では新宿テアトルの大ヒットを受け、公開スクリーン数が拡大する傾向にあるようです。
とはいえ、いわゆる「夏映画」ですから、いずれは公開が終了します。
DVDになってからでいいや、とか思っている人!今ならまだ間に合います。これは劇場で見るべき映画です。

"Time waits for no one."
公開している間に観ましょう。

映画の出来については、今更ここでくどくど言うまでもないんですが。
これは普遍性を持った傑作映画です。リアルタイムで青春を過ごしている人だけではなく、年を取った自分(まあ所謂大林版世代とでもいいますか)でも十分に楽しめる普遍性を持った作品。それでいて、世界一眼が肥えている日本のアニメファン(=ヲタ)にも有無をも言わせぬ完成度。
ときかけ
既にYahooムービーを始めとする映画関係サイトや掲示板では、圧倒的な高評価が与えられており、個人的にもこの夏一番の傑作だと思います。いやこれは身内の身びいきとかそういうのではなく。
正直、映画を見る前までは、かなり心配でした。ジブリと日本テレビの圧倒的な物量宣伝に潰されるんじゃないの?とか。
実際、『ハウル』の細田降板があり、今回の公開時期バッティングですから、若い芽を摘むジブリと、それに対抗する角ヘラ+細田連合、とか、場外からはそういううがった見方もできるわけですが、まあ公開時期が重なったのは単なる偶然でしょう。
でも結果として、これは角ヘラ+細田の圧勝じゃないですか。いや興行的にはスクリーン数がそもそも一ケタ違うし、客席数ではさらにその数倍の差があるんで、比較すること自体がナンセンスですが、映画の出来は圧倒的にこちらに軍配が上がるんじゃないですか。
宣伝展開も、公開前の宣伝材料として、ヲタ系に受けのいい乙一や樋口真嗣、押井守、さらには「腐女子の好物もいっぱい」とか、明らかに対象をヲタに絞っていたと思われるのに、蓋を開ければ、ヲタだけではなく一般客も含め、みんなが大満足。そしてテレビスポットもほとんど打たれていないにも関らず、口コミでヒットですから。

時をかける少女』の映画化は、自分が知る限りでは、大林&原田知世版、角川春樹自身が監督した版、そしてこれが3つ目じゃないかと思うんですが、大林版は、原作のストーリーやエッセンスを大切にしつつも、独自の大林ワールドに原作を絡め取った、というイメージでした。
春樹版は・・・何も言いません。
そしてこの3作目。
ストーリーは大胆に原作から離れています。基本は「女子高校生がタイムリープする」、というところだけで、他は全面的に変わっている、と言ってもいいでしょう。
ところがこの改変があるにも関らず、立派に「21世紀のトキカケ」になっている。それは原作の持つ、思春期の登場人物達の手触りのリアルさがそう思わせるのかもしれません。
原作版は、SF小説である以上に、「青春小説」だったということなのかも。
さらに、原作版(そして大林版)の主人公であった芳山和子を、主人公の叔母として、原作のキャラクターのまま成長した女性として登場させ、原作との継続性も持たせて、原作ファン(そして原作そのもの)への気配りも忘れていません。 原作者もこの大胆な改変を、結果的に大変好意的に捉えているようですが、自分も、ある意味大林版よりもトキカケしている、とも思える、この脚本の出来の良さが、この映画の一番の肝だなあと。
そして緻密にして大胆な細田守の天才演出は、第二の肝。
素晴らしい主題歌は第三の肝。

とにかく素晴らしい映画です。見に行く価値がある、入場料金1800円以上の価値がある作品です。

ところでFLIXのサイトがリニューアルされていることは知りませんでしたが、そこのニュースがmixiに配信されており、このニュースはmixi経由で知りました。

■ネットの口コミで大ヒット?『時をかける少女』は連日超満員!

(前略)筒井康隆の名作を新たな構想で製作したアニメーション『時をかける少女』が7月15日に都内で公開されてから、テアトル新宿ほか、都内の公開劇場でじわじわと観客動員数を伸ばしている。

 テレビスポットを何度も打つような大々的な宣伝を特にしていない本作が、公開から順調に観客動員数を伸ばしているのは、Yahoo!ムービーのユーザーレビュー1位などネットや友人から評判を聞きつけた“口コミ”客が増えていっていることが、大ヒットの要因のひとつとなっている。(後略)

シネマトゥディ 8/10のニュースより

ここ広島では、当初から単館公開(とはいってもミニシアターではなくバルト11という、T-JOY系の、広島では屈指のシネコンでの公開ですが)、そして8月11日をもって公開終了という惨状でした orz
ただ、自分はこの映画、公開週と、その翌週の二度、見に行きましたが(いずれもウィークディ)、公開週に見に行った時は劇場内には自分を含めて20人ほどしかいなかった観客が、翌週には席がほとんど埋まり、空席は数えられる程度になっていたのを見て、驚きました。
高校が夏休みに入っていたからだ、というのもあるかもしれませんが、とてもじゃないがヲタク文化不毛の地広島で、ウィークデイ真昼間の劇場を埋め切るだけの多数のヲタが生息しているとも思えませんし、そもそも観客の大多数は若いカップルですから。
まあバルト11では当初から公開は2週間だけ、と決めていたんでしょうから、公開期間の後半になって急激に客足が伸びたからといって、急遽公開延長、というわけにもいかないんでしょうけどね。夏はかき入れ時で、スクリーンもいっぱいいっぱいでしょうし。
それでもこうして口コミで評判になり、ネットのニュースにもなってきた頃にはもう劇場ではやってません、てな状況はいかがなものですかね。
こういった細かい状況の積み重ねが、ヲタ文化に限らず、映画とか音楽とかの大衆文化の根付きというか広がりが弱い広島の状況を生んでいるというかなんというか。

最近、日本映画ばかり立て続けに4本映画を見たんですが、まずは『初恋』
初恋
解説: 日本犯罪史上最大のミステリーと言われる府中三億円強奪事件を題材に、中原みすずの同名原作を映画化した異色のラブサスペンス。実行犯が18歳の女子高生という大胆不敵な設定の中、迷宮入りとなった事件の真相を主人公自らが語り明かす。原作を読んでヒロイン役を熱望した『NANA』の宮崎あおいが、衝撃的な犯罪ドラマにファンタジックな魅力を添える。歴史の闇に隠れた事件にピュアで切ない初恋の想い出をクロスさせた青春ドラマとしても楽しめる。

ストーリー: 友達も作らず、ひたすら読書をする日々を送る孤独な高校生のみすず(宮崎あおい)は、ある日の放課後、新宿の繁華街へ足を運んでいた。実の兄の亮(宮崎将)をはじめ、個性的な面々が集うジャズ喫茶店Bへ入ったみすずは、生まれて初めて“仲間”という存在に触れ、東大生の岸(小出恵介)に切ない感情を抱き始めるが……。

Yahoo!ムービー より
68年の三億円事件の謎に迫るミステリー、ではありません
まぁそれは、タイトルを見れば明らかなんですが・・・
宣伝では「三億円事件」の部分が強調されすぎている気がしますが。
実際は、68年という、ちょうど学生運動が最も盛んだった頃に、当時充満していた反体制・反権力の空気、さらに時を同じゅうして発生した三億円事件、これらをネタとして、孤独な少女の心の内を描いたものです。
原作は未読だったので、原作者がどういうつもりで三億円事件を取り上げたのか、そして原作で事件の顛末が占めるウェイトがどの程度のものかは分かりませんでした。
映画を見てからそのあたりを知りたくて、慌てて書店で原作を買い求め、読了しましたが、原作でも映画でも、事件はとにかく少女の心模様を描くための「手段」でしかないので、事件の謎解きを期待していると肩透かしを食らいます。というか食らいました。

映画としての見所となるべきところは、いかにあの時代の空気感とストーリーがきっちり絡み合って描きこまれているか、という部分ですが・・・

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