田中麗奈

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 昨年の夏に広島ロケをやっていることを知ってから、公開を待っていた作品です。
静かな、しかし訴えかけるものの大きい映画です。特に広島に住む者としては、身につまされるものが大きい映画でした。

 映画はタイトルが示すとおり、麻生久美子主演で終戦(被爆)から十数年経った広島を舞台にした『夕凪の街』と、田中麗奈主演で現代の東京(中野)と広島を舞台にした『桜の国』の二つのエピソードからなる、連作という体裁を取ったものになっています。
監督は佐々部清監督。様々な監督の下で長い助監督経験を積んだ後に監督となった、職業監督です。寺尾聰主演で日本アカデミー賞を始めとして世間で高く評価された傑作『半落ち』が代表作、でも俺はそれよりその前後に撮られた『陽はまた昇る』(VHS規格を作ったビクター社員を描いた、いかにも東映らしい企業実録モノ)、『チルソクの夏』(今をときめく上野樹里の映画デビュー作ですよ)の二本が好きなんですが、一方でがっかりするような駄作も撮っている人だけに、過大な期待は禁物、という感じで観にいきました。
 結論から言うと、あまりにも強力な原作(手塚治虫文化賞新生賞、文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞受賞など傑作・名作と名高い、こうの史代さんの同名漫画)に対して、映画人としてのプライドを賭けて独自のオリジナリティを打ち出そうとする余り饒舌になりすぎた脚本・編集・演出が、映画を見慣れた目には少々ウザい。そういう技術的な部分については、「映画ファン」としてケチをつけたくなるところが結構あったりもします。
 ただ、そういう批判をすることが、いかにも矮小でつまらんことに思えてしまうほどに、この作品の訴えかけるものは大きい。先にも書きましたが、広島に住む者にとっては特に大きい。
 だから、この映画についてはエントリを二つに分けます。いち映画ファンとしてのエントリと、広島に住む者としてのエントリ。

 まずは、「いち映画ファン」として。

俳優陣、とりわけダブル主演の二人が素晴らしい。麻生久美子がいいのは今に始まったことではないんですが、特筆すべきは田中麗奈です。重くて悲しい『夕凪の街』から一転、コミカルですらある『桜の国』の中でも、さらに狂言回しのような役回りであり、軽い芝居に終始しているんですが、ラストシーン、彼女の表情のアップからストップモーションでエンド・クレジットに入る、その時の表情。素晴らしいを通り越して「凄み」すら感じさせるカットです。不覚にも、劇中の涙にシンクロするかのように、こちらも涙が出てきてしまいました。
麻生久美子・吉沢悠 巧い俳優には、「演技派=どんな役を与えられても器用にその役になりきって演じてしまう」タイプの人と、「個性派=どんな役を与えられても俳優本人の強烈な個性の中に役を引き込んで演じてしまう」タイプの人がいると思うんです。前者は仲代達也や三國連太郎、中井貴一、もうちょっと若手でいうと吉岡秀隆や松山ケンイチ、海外で言うとケヴィン・クラインとかショーン・ペン、ウィリアム・ハート。そして後者は緒形拳、渡辺謙、松田優作、佐藤浩一、若手では木村拓也、窪塚洋介、松田龍平、海外では断トツでジャック・ニコルソン、ほかにショーン・コネリー、ニコラス・ケイジ。女優では前者が寺島しのぶ、宮本信子で、後者の典型は吉永小百合、松坂慶子といった感じでしょうか。
 田中麗奈は、デビュー作『がんばっていきまっしょい』があまりにもすばらしく、良くも悪くもあれでパブリック・イメージが固まってしまったというのがある種気の毒でもあったんですが、その後、演技の幅を広げようと(いや、どうかわかりませんが)様々な役にチャレンジしていましたが、元来、前述の「演技派=器用に役になりきるタイプ」の女優さんではなく、その個性的なルックスもあって、何を演じても田中麗奈になってしまう、というタイプなだけに、デビュー作の『がんばって~』を除くと、本当にハマる役に出会えていないという感じだったのが、今回、やっと代表作といえる作品に出会えたのではないでしょうか。
 狂言回し的な役回りで、ストーリーだけを追って映画全体を見ると、明らかに麻生久美子のほうが印象が強い筈なのにも関らず、ラストのワンカット(実際撮影も最後だったらしいです)で、それまでの『夕凪の街』パートと『桜の国』パートの両方、全てを受け止めた彼女の表情は、絶賛に値するものです。
 そのラストカットに繋がる、堺正章の芝居も素晴らしい。普段のテレビの司会などでみる、不必要にハイテンション(しかもあんまりおもしろくない、どころかちょっと不愉快にすらなる)な堺正章とは全然違った、どこかコミカルながらも抑制の効いた演技、そしてラストカットに繋がる台詞。
 俳優賛歌はこれくらいにして、映画そのものについても書いておきます。

 声高に「反戦」「反核」を騒ぎ立てる映画ではありません。『夕凪の街』パートは終戦から十数年後、つまり戦後十数年経っている広島が舞台ということもあり、被爆直後の惨状の描写は最低限に抑えられている、というよりも、無いに等しく、どうしても必要と思われる描写も抽象的な「絵」で示されます。主人公の皆実(麻生久美子)と母フジミ(藤村志保)が銭湯にいるシーンで、他の客を含め、体のどこかしらに火傷の痕が残っている、というのが、唯一、直接的な描写でした。
田中麗奈・中越典子  その銭湯のシーンと対照的に描かれるのは、『桜の国』パートにおける、田中麗奈と中越典子のラブホテルでの入浴シーンです。ここで二人によって歌われるプリプリの『ダイヤモンド』は、『夕凪』パートで歌われる50年代のヒット曲との対比にもなっています。このあたり、被爆直後の惨状描写だけは徹底して抑制しておきながら、それ以外の部分では能弁すぎるほど能弁です。  現代の中野と広島が舞台となる『桜の国』パートでは、当然ながら、直接的に被爆に関する描写は皆無です。前述の通り、このパートの主人公でありながら映画終盤まで狂言回し的役割にある七波を演じた田中麗奈の軽妙な演技、そして、会社を定年退職する年齢に達した、皆実の弟である旭(七波の父であり、つまり皆実と七波は伯母と姪になる)を演じる堺正章の淡々と抑えた演技で、『夕凪』よりもさらに軽い仕上がりです。
 持っているテーマの重さを考えると、敢えて被爆直後の惨状描写を抑えたのは正解でしょう。
 ただ、気になるのは、それ以外の部分が、過剰に能弁なこと。たとえばあまりにも主人公二人、皆実と七波の独白が多い。それは実際に話すシーン、たとえば『夕凪』での、原爆スラムのある本川沿いのアカシヤの幼木の下で、皆実が思い人である打越さん(吉沢悠、広島弁上手だね)に語る場面であったり、『桜』での、夜行バスの中、隣席で寝ている幼馴染の東子(中越典子)に語るシーンなどです。さらにそれよりも、ナレーション的に入る、本当の意味での独白。もうちょっと脚本がどうにかならなかったのか、というくらいくどい。小説でも舞台演劇でもないんだから、ここはセリフ(言葉)に頼りきらないでほしかったですね。このくどさが、大袈裟に言えば映画を一段も二段も落としているのではないかと。
 映画を見て、原作が読みたくなって、早速買ってきて読んだのですが、独白が多いのは原作もそうなんですね。ま、だからこそ映画では別の表現があったんじゃないのか、とは思うんですが。
 映画独自の表現を追及した結果、原作と変わったところといえば、皆実が亡くなるシーン。原作ではほとんど白紙のコマの連続であるのに対して、映画では、ちょっとやりすぎじゃないかというくらい「お涙頂戴」なシチュエーションになっています。ここでは吉沢悠と、青年時代の旭を演じる伊崎充則が、麻生久美子の見事な大芝居をしっかり受け止めており、脚本的にはベタといえばあまりにベタなんですが、そこを俳優の力技で「ベタでも泣ける」ものに仕上げているのは見事です。
逆に、映画ならではの工夫が上手く作用したのは、小道具の使い方です。印象深かったのは、姉から弟の嫁に受け継がれ、さらにその娘に受け継がれた髪留め。さらに『夕凪』の導入部で出てきたあと、『桜』の中で出てくるワンピース。そしてラストの田中麗奈の名演に直接繋がる小道具として使われた一枚の写真。これらの小道具の使い方は映画版独自のものであり、特に写真は、こちらの涙腺を開放するのに大いに役立っていました。

 総じて、原作の持つ、ある種「秘すれば花」的な、読み手の想像力に頼る部分を、映画ではかなり分かりやすい形で構築し直しているだけに、観客に訴えかけるテーマは、よりはっきりしたものになっていると思います。そしてそれはあまりにも広島に住む者の心に深く突き刺さってくるものだったんですが、それはまた別エントリにて。

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タグ : 日本映画 夕凪の街 桜の国 田中麗奈 麻生久美子

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