日本映画

裏MotorsportsFlashback。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2010年日本
▼製作:SOS団(角川書店/角川映画/京都アニメーション/クロックワークス/ランティス)▼総監督:石原立也▼監督:武本康弘▼脚本:志茂文彦▼音楽:神前暁ほか▼キャラクターデザイン・超総作画監督:池田晶子▼総作画監督:西屋太志▼作画監督:植野千世子/秋竹斉一/池田和美/高橋真梨子/門脇未来/堀口悠紀子/高橋博行▼アニメーション制作:教徒アニメーション
▼出演:杉田智和/平野綾/茅原実里/後藤邑子/小野大輔/桑谷夏子
配給:角川映画 公開日:2010年2月6日

涼宮ハルヒの消失
(劇場版京アニ公式サイト)

 劇場版とテレビシリーズが相次いでBlu-ray disk化されたのを、数日かけて改めて見終えたあとに感じたことを、いまさらですが書きます。

 この劇場版は、非常によくできたSFジュブナイルの映像化作品です。

国産劇場用アニメの全体的な高品質化

 原作小説は、ライトノベルの枠内で語られることが多いのですが、基本には、SF的な枠組みの中で高校生を主人公にした「キャラもの」小説です。そして、この映画は、その原作小説でいうと第四巻を、まるまる映像化したものです。
 テレビシリーズとしてアニメ化もされて大人気を博した『涼宮ハルヒ』シリーズですが、テレビも映画も、制作スタジオは今の国内アニメーション業界を引っ張るスタジオの一つ、京都アニメーション、通称「京アニ」です。
 京アニは、原作の世界観を大切にした映像化と、その丁寧な絵作りで定評がありますが、この映画作品ではさらにその方針が徹底されており、劇場版パンフレットにも記載されている通り、もともと原作に忠実かつ丁寧な作りだったテレビシリーズから、さらに予算も時間も潤沢に掛けて、現代の劇場版アニメとしては非常に質の高いものに仕上がっています。

 尤も、最近の劇場版アニメは、どの作品もこういった傾向が強く、『魔法少女リリカルなのは The Movie First』、『Fate / stay night - UNLIMITED BLADE WORKS』など、同時期に公開された劇場版アニメーション作品は、いずれも元のテレビシリーズやゲームなどの世界観を大きく変えることなく、劇場版ならではの予算と時間をたっぷり掛けて、「映像としては」高品質なものとなっています。

 その流れに沿って考えると、この『涼宮ハルヒの消失』の品質の高さも、特記すべきものとは言えません。

 ただ、特筆すべきは、(敢えてライトノベルとは言いません)SFジュブナイルとしての完成度の高さです。
 原作小説もジュブナイルと言えなくはないんですが、この映画に限って言えば、いや、テレビシリーズからこの映画に至る、アニメーションで映像化化された『涼宮ハルヒ』シリーズ全体として、原作の持つポテンシャルを軽く超越した大傑作となっていると考えます。

 ただし、この傑作を真に「傑作」と言い切れる人、そう感じられる人は、ある種の条件を満たす人だけになります。

 映画の感想や批評を書いてあるblogやサイトなどで、頑なに

「映画は映画として単独で見て評価されるべきである」

 という、映画原理主義とでも言うような主張を時々見かけます。
 そういう主張をする人たちは、
「原作を読んでいないと話が分からない」

という映画は絶対に認めません。あくまでも、金を取って映画を見に来た観客にとっては、映画の中で得られる情報が全てであり、その枠内での評価しか認めない、というものです。

 彼らにとっての目の敵は、たとえば、『ハリー・ポッター』シリーズ。
 原作は長大な長編小説です。映画の方も回を重ねる毎に上映時間が延びて、いつの間にか、本来対象である小さな子供が鑑賞に耐えうる長さを越えた長尺になっています。
 それでも、原作小説にあったエピソードを全て映像化するのは時間的に不可能であり、映画にはある程度の「端折り」があるんですが、それがために、映画だけを見ていると、お話の流れについて行けていないな、と感じる部分があります。

 先に書いた映画原理主義者たちにとっては、これは許しがたいことなんでしょう。
 そして、そういう映画原理主義者たちにとって、本作『涼宮ハルヒの消失』もまた、許しがたい作品、ということになるのかな、と思うと、まぁなんとももったいないことです。

 さて、では、この映画を十分に楽しむための条件、とはどういったものか?
 以下のいずれかに該当する人なら、まず文句なく楽しめるでしょう。

  1. テレビシリーズ全話を見た人
  2. 登場するキャラクターや設定などを知った上で、テレビシリーズ中の『笹の葉ラプソディ』『エンドレスエイト(を全話)』『サムデイインザレイン』を見ている人
  3. 原作全巻読了者
 まず、ストーリーの流れでいうと、本作『涼宮ハルヒの消失』は、時系列としては、テレビシリーズ最終話『サムデイインザレイン』の直後から話が始まります。
 さらに作中で、タイムトラベルにより『笹の葉ラプソディ』で描かれた、「3年前の七夕の夜」と、時空間が行き来します。
 つまり『笹の葉ラプソディ』の内容と本作の内容は、互いに補完関係にあります。『笹の葉ラプソディ』で提示されたまま残されていた謎については、そのほとんどに対して、今回、解答、もしくは解明に至るヒントが提示されます。
 逆に、『笹の葉ラプソディ』そのもののストーリーに関しては、今回、ほとんど説明されませんなので、テレビシリーズの第一期だけしか見ていない人は、加えて、せめて『笹の葉ラプソディ』だけでも見ておけば、ずいぶん違うと思います。

『エンドレスエイト』は必要だった

 テレビシリーズ二期で悪評高かった、『エンドレスエイト』というエピソード。
 「終りのない八月」という意味を持つタイトルのこのエピソードは、主人公の涼宮ハルヒが、自らの理想とする夏休み体験が得られなかったがために、無意識のうちに夏休みを一万五千四百九十八回だか繰り返す、という話です。
 なんとこれをテレビでは、実際に、夏休みのできごとを描いた同じエピソードを八回繰り返し放送するという、まぁ良くいえばアヴァンギャルドで実験的な訳ですが、実際にやってみた結果、出演声優たちは困惑を隠せないままに収録にのぞみ、放送されればファンからは非難轟々、という訳で、それまでそれなりに2000年代を代表するテレビアニメとして評価を得ていた『涼宮ハルヒの憂鬱』の評価そのものを落とした元凶、とも思われていたエピソードです。

 ところが、この劇場版『涼宮ハルヒの消失』にとって、このエピソードは欠かすことのできない布石となっています。
 具体的には、本作(劇場版)のストーリー中で提示されている、「全ての原因は長門有希」というところです。
 普段から人間的な感情をほとんど見せず、過去には超人的な能力で登場人物たちの危機を乗り越えてきた長門有希が、なぜ突然この映画では、あのようなことになったのか?
 ここは、テレビシリーズ一期だけを見てから映画を見た人には、長門のキャラの振れ幅があまりに大きすぎ、違和感を感じた部分ではなかったでしょうか。

 ところが『エンドレスエイト』を延々と見ていた(むしろ「延々と見させられていた」)二期の視聴者にとっては、あのいつ終わるともわからない徒労感を味わったことで、劇中の長門有希と同じうんざりした感じを共有することができたのではないか、そして制作側にとっては、あの無謀とも思える『エンドレスエイト』の真の狙いがもしかして、そこにあったのではないか、と思うのです。

 通常のことではびくともしない強心臓かつ無感情の長門有希(彼女は実際は人間ですらない)。その彼女が、なぜあそこまで追い込まれたのか、長門有希だけが感じていた様々な真実、そして彼女自身が手を下さざるを得なかった状況。それによって彼女が感じていたであろう「うんざり」とした感覚。それを視聴者(劇場版の鑑賞者)に共有させるための効果的な手段こそが、あの『エンドレスエイト』の手法だった、ということなのではないでしょうか。

 『エンドレスエイト』は、『涼宮ハルヒ』という映像コンテンツそのものに対して、一期を終えた頃にあった、時代を代表する傑作、という評価を覆してしまった。少なくとも、あれで離れてしまったファンは少なくなかったでしょう。
 でも、それを大きな伏線として、二期放映の翌年早春に劇場版でそれを回収してしまったとも言えるわけで、長期に渡り、しかもテレビシリーズと劇場版を通して、シリーズ全体のディレクションをここまで上手くやった例はあまり思いつきません。

 テレビシリーズ二期とのあいだの仕掛けにばかり話が行きましたが、その制作側が最初に設けた関門さえクリアできれば、とにかく楽しめる作品です。脚本も演出も作画も音楽も素晴らしい。ストーリーの仕立ては脚本というより原作に負う部分が大きいでしょうが、それ以外にも主人公の感情描写などは、抜きん出て素晴らしいものになっています。

関連記事
スポンサーサイト

タグ : 涼宮ハルヒの消失 涼宮ハルヒの憂鬱 日本映画 アニメ

サマーウォーズ 公式サイト
サマーウォーズ 公式ブログ

 吉祥寺に住んでいた頃、同じお店で飲んでいた、いわば飲み仲間でもある、細田守監督。
 前作『時をかける少女』(2006年)が、恐るべき高評価だったため、広く一般に名前が知られるようになり、現代日本において、最も次回作を嘱望されるアニメーション演出家の一人であると言っても過言ではないほどの重要な存在になった人なので、今更飲み仲間なんていうのは大変気が引けます。
 その細田監督の次回作が、いよいよ今年の夏に公開されることになりました。
 すでに劇場用特報がYouTubeにあがっていますので、貼っておきますね。

 エヴァ新作といい、今年は劇場用アニメが熱い夏になりそうです。

  

 昨年の夏に広島ロケをやっていることを知ってから、公開を待っていた作品です。
静かな、しかし訴えかけるものの大きい映画です。特に広島に住む者としては、身につまされるものが大きい映画でした。

 映画はタイトルが示すとおり、麻生久美子主演で終戦(被爆)から十数年経った広島を舞台にした『夕凪の街』と、田中麗奈主演で現代の東京(中野)と広島を舞台にした『桜の国』の二つのエピソードからなる、連作という体裁を取ったものになっています。
監督は佐々部清監督。様々な監督の下で長い助監督経験を積んだ後に監督となった、職業監督です。寺尾聰主演で日本アカデミー賞を始めとして世間で高く評価された傑作『半落ち』が代表作、でも俺はそれよりその前後に撮られた『陽はまた昇る』(VHS規格を作ったビクター社員を描いた、いかにも東映らしい企業実録モノ)、『チルソクの夏』(今をときめく上野樹里の映画デビュー作ですよ)の二本が好きなんですが、一方でがっかりするような駄作も撮っている人だけに、過大な期待は禁物、という感じで観にいきました。
 結論から言うと、あまりにも強力な原作(手塚治虫文化賞新生賞、文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞受賞など傑作・名作と名高い、こうの史代さんの同名漫画)に対して、映画人としてのプライドを賭けて独自のオリジナリティを打ち出そうとする余り饒舌になりすぎた脚本・編集・演出が、映画を見慣れた目には少々ウザい。そういう技術的な部分については、「映画ファン」としてケチをつけたくなるところが結構あったりもします。
 ただ、そういう批判をすることが、いかにも矮小でつまらんことに思えてしまうほどに、この作品の訴えかけるものは大きい。先にも書きましたが、広島に住む者にとっては特に大きい。
 だから、この映画についてはエントリを二つに分けます。いち映画ファンとしてのエントリと、広島に住む者としてのエントリ。

 まずは、「いち映画ファン」として。

俳優陣、とりわけダブル主演の二人が素晴らしい。麻生久美子がいいのは今に始まったことではないんですが、特筆すべきは田中麗奈です。重くて悲しい『夕凪の街』から一転、コミカルですらある『桜の国』の中でも、さらに狂言回しのような役回りであり、軽い芝居に終始しているんですが、ラストシーン、彼女の表情のアップからストップモーションでエンド・クレジットに入る、その時の表情。素晴らしいを通り越して「凄み」すら感じさせるカットです。不覚にも、劇中の涙にシンクロするかのように、こちらも涙が出てきてしまいました。
麻生久美子・吉沢悠 巧い俳優には、「演技派=どんな役を与えられても器用にその役になりきって演じてしまう」タイプの人と、「個性派=どんな役を与えられても俳優本人の強烈な個性の中に役を引き込んで演じてしまう」タイプの人がいると思うんです。前者は仲代達也や三國連太郎、中井貴一、もうちょっと若手でいうと吉岡秀隆や松山ケンイチ、海外で言うとケヴィン・クラインとかショーン・ペン、ウィリアム・ハート。そして後者は緒形拳、渡辺謙、松田優作、佐藤浩一、若手では木村拓也、窪塚洋介、松田龍平、海外では断トツでジャック・ニコルソン、ほかにショーン・コネリー、ニコラス・ケイジ。女優では前者が寺島しのぶ、宮本信子で、後者の典型は吉永小百合、松坂慶子といった感じでしょうか。
 田中麗奈は、デビュー作『がんばっていきまっしょい』があまりにもすばらしく、良くも悪くもあれでパブリック・イメージが固まってしまったというのがある種気の毒でもあったんですが、その後、演技の幅を広げようと(いや、どうかわかりませんが)様々な役にチャレンジしていましたが、元来、前述の「演技派=器用に役になりきるタイプ」の女優さんではなく、その個性的なルックスもあって、何を演じても田中麗奈になってしまう、というタイプなだけに、デビュー作の『がんばって~』を除くと、本当にハマる役に出会えていないという感じだったのが、今回、やっと代表作といえる作品に出会えたのではないでしょうか。
 狂言回し的な役回りで、ストーリーだけを追って映画全体を見ると、明らかに麻生久美子のほうが印象が強い筈なのにも関らず、ラストのワンカット(実際撮影も最後だったらしいです)で、それまでの『夕凪の街』パートと『桜の国』パートの両方、全てを受け止めた彼女の表情は、絶賛に値するものです。
 そのラストカットに繋がる、堺正章の芝居も素晴らしい。普段のテレビの司会などでみる、不必要にハイテンション(しかもあんまりおもしろくない、どころかちょっと不愉快にすらなる)な堺正章とは全然違った、どこかコミカルながらも抑制の効いた演技、そしてラストカットに繋がる台詞。
 俳優賛歌はこれくらいにして、映画そのものについても書いておきます。

 声高に「反戦」「反核」を騒ぎ立てる映画ではありません。『夕凪の街』パートは終戦から十数年後、つまり戦後十数年経っている広島が舞台ということもあり、被爆直後の惨状の描写は最低限に抑えられている、というよりも、無いに等しく、どうしても必要と思われる描写も抽象的な「絵」で示されます。主人公の皆実(麻生久美子)と母フジミ(藤村志保)が銭湯にいるシーンで、他の客を含め、体のどこかしらに火傷の痕が残っている、というのが、唯一、直接的な描写でした。
田中麗奈・中越典子  その銭湯のシーンと対照的に描かれるのは、『桜の国』パートにおける、田中麗奈と中越典子のラブホテルでの入浴シーンです。ここで二人によって歌われるプリプリの『ダイヤモンド』は、『夕凪』パートで歌われる50年代のヒット曲との対比にもなっています。このあたり、被爆直後の惨状描写だけは徹底して抑制しておきながら、それ以外の部分では能弁すぎるほど能弁です。  現代の中野と広島が舞台となる『桜の国』パートでは、当然ながら、直接的に被爆に関する描写は皆無です。前述の通り、このパートの主人公でありながら映画終盤まで狂言回し的役割にある七波を演じた田中麗奈の軽妙な演技、そして、会社を定年退職する年齢に達した、皆実の弟である旭(七波の父であり、つまり皆実と七波は伯母と姪になる)を演じる堺正章の淡々と抑えた演技で、『夕凪』よりもさらに軽い仕上がりです。
 持っているテーマの重さを考えると、敢えて被爆直後の惨状描写を抑えたのは正解でしょう。
 ただ、気になるのは、それ以外の部分が、過剰に能弁なこと。たとえばあまりにも主人公二人、皆実と七波の独白が多い。それは実際に話すシーン、たとえば『夕凪』での、原爆スラムのある本川沿いのアカシヤの幼木の下で、皆実が思い人である打越さん(吉沢悠、広島弁上手だね)に語る場面であったり、『桜』での、夜行バスの中、隣席で寝ている幼馴染の東子(中越典子)に語るシーンなどです。さらにそれよりも、ナレーション的に入る、本当の意味での独白。もうちょっと脚本がどうにかならなかったのか、というくらいくどい。小説でも舞台演劇でもないんだから、ここはセリフ(言葉)に頼りきらないでほしかったですね。このくどさが、大袈裟に言えば映画を一段も二段も落としているのではないかと。
 映画を見て、原作が読みたくなって、早速買ってきて読んだのですが、独白が多いのは原作もそうなんですね。ま、だからこそ映画では別の表現があったんじゃないのか、とは思うんですが。
 映画独自の表現を追及した結果、原作と変わったところといえば、皆実が亡くなるシーン。原作ではほとんど白紙のコマの連続であるのに対して、映画では、ちょっとやりすぎじゃないかというくらい「お涙頂戴」なシチュエーションになっています。ここでは吉沢悠と、青年時代の旭を演じる伊崎充則が、麻生久美子の見事な大芝居をしっかり受け止めており、脚本的にはベタといえばあまりにベタなんですが、そこを俳優の力技で「ベタでも泣ける」ものに仕上げているのは見事です。
逆に、映画ならではの工夫が上手く作用したのは、小道具の使い方です。印象深かったのは、姉から弟の嫁に受け継がれ、さらにその娘に受け継がれた髪留め。さらに『夕凪』の導入部で出てきたあと、『桜』の中で出てくるワンピース。そしてラストの田中麗奈の名演に直接繋がる小道具として使われた一枚の写真。これらの小道具の使い方は映画版独自のものであり、特に写真は、こちらの涙腺を開放するのに大いに役立っていました。

 総じて、原作の持つ、ある種「秘すれば花」的な、読み手の想像力に頼る部分を、映画ではかなり分かりやすい形で構築し直しているだけに、観客に訴えかけるテーマは、よりはっきりしたものになっていると思います。そしてそれはあまりにも広島に住む者の心に深く突き刺さってくるものだったんですが、それはまた別エントリにて。

せっかく東京に行ったんだし、広島じゃまだ見られない映画とか、広島じゃ今後永遠に見られない映画とか、とにかく見よう、ということで3本見たのが以下。

虹色★ロケット
下北沢にある短編映画専門の映画館、短編映画館 トリウッドにて。
観終わったあと、すごくニュートラルに清清しいというか、必要以上に感情を動かされるわけではなく、でも観てよかったと思わせられる、いい映画でした。

芸術的銀河科――
かつて生徒が作ったそのおかしな学科に、不思議な転校生がやってくる。名前はユカ。
持ち前の明るさでユカはすぐにメンバーの環に溶け込んでゆく。
薬物依存やイジメ、恋人の死。様々な過去を生きてきた仲間たちの中で、自殺未遂をしたミナミだけが、未だに"それ"を乗り越えられずにいる。
そしてユカもまた、難病に冒され、壮絶な過去を抱えていた。
誰にも変えることが出来なかったミナミ<死にたい者>の想いと、全てを捨てる決意を固めたユカ<生きたい者>の覚悟が衝突する…
果たしてその先に待つものとは?
「生」と「死」、どちらにも真っ正面からぶつかってゆく7人と、それを見守る顧問のトムやヤブ医者ハルカ、意地悪な神様。
厳しい冬を優しくあたためるような、それぞれの命の物語。
「広島じゃ今後永遠に見られない映画」だろうねこれ。
同じ学校に通う高校生が、学校からの依頼で撮影した、いわば「教材」。
完全に自主映画です。しかも、高校生の映像制作集団が作ったといっても、ポイントは「学校からの依頼で」という点。
つまり、若い世代のクリエイターが作ったものなのに、これは大袈裟に言えば「体制側」からの要請で作ったものであって、ありがちな反体制とかそういう部分は皆無。
世間では大層な褒め言葉が飛び交っていますが、所詮はプロではないアマチュア集団が作った作品だけに、技術的に云々するのは完全にお門違いでしょう。
でもこの映画の持つテーマ、まあそれは「生きること」「命の大切さ」なんだろうけれども、それをこれだけ綺麗にまとめた脚本は見事でしょう。果たしてこの手垢にまみれたテーマを、ちゃんとエンターテイメント性を含ませながらも、これだけきっちりとまとめられる「プロの」脚本家がいるでしょうか?
ごく最近、渡辺文樹の『御巣鷹山』(ひどい映画!)を観て酷い脚本に幻滅させられただけに、余計そう感じます。って比較対象が酷すぎるか。
しかも時折劇中に飛び交う「セリフ」の秀逸なこと。

「生きる覚悟は、できたか?」

こんなセリフを、何の衒いも無く使えてしまい、それが劇中でイマドキの高校生に喋らせても全く違和感がないキャラ造形はお見事としか言いようがなく、もしかしたらこの脚本は奇跡の賜物か。。。
主演の高校生7人、芝居が自然とか不自然とかではなく、脚本、キャラ造形が見事すぎて、芝居しているという状態じゃあないんでしょう。殆ど素。だがそれがいい。女性陣が特に素晴らしい。

長州ファイブ
シネマート六本木にて。
こんなとこに映画館あったっけ?ちょっと離れただけでガラッとかわっちまう、それが東京。
近代日本の礎となった、長州藩から英国へ密航した五名の若者、即ち井上聞多(後の馨、初代外務大臣)、遠藤謹助(大阪造幣局局長)、伊藤俊輔(後に博文;初代内閣総理大臣)、野村弥吉(後の井上勝;国内初の鉄道敷設に尽力、初代鉄道局長官)、そして山尾傭三(現東京大学工学部を創設、国内初の聾唖学校設立に尽力)。
五名の中で最も知名度が低いと思われる山尾傭三を主人公に据えたことが、物語の自由度を高めたと言えましょう。
そしてこの映画、なにがいいといって、松田龍平。
『御法度』で出てきた時は、なんだか生っ白くて気持ち悪いなあ、親父さんの持つ男っぽさが全然ないや、と思ったんですが、いつのまにか親父の幻影などどこ吹く風とばかり、実にいい役者になりました。
彼が演じた、形の上では武士を捨てつつも心情的にはサムライであり続けた山尾傭三の潔さ、美しさ、男臭さ。
そのキャラがこの映画を支えているし、ひいては松田龍平自身がこの映画を支えていると言えます。『悪夢探偵』も観にいこうっと。

ユメ十夜
シネマスクエアとうきゅう。
単館系の雄として名を馳せたのも今は昔。。。新宿近辺にもシネコンができたり、古い劇場もリニューアルしたりすると、あの妙に前後に長いレイアウトといい、酷い音響といい、もうその役割を終えたと言っていいんじゃないですかね。
あえて「シネマスクエアとうきゅう」を名乗らず、「新宿ミラノ4」でいいじゃんか。
劇場の話はともかくとして。
原作も漱石の作品としては極めて異色ですが、これを10人の映画監督で10分程度の小品を集めたオムニバス。
大御所市川崑から、異端実相寺昭雄(合掌)、Jホラーの旗手清水崇、西川美和とか山下敦弘とかの新進気鋭の作家たちまで、10人の作家のイマジネーションを無心で楽しむ映画。そして、誰それの作品がいいだの悪いだの言い合う。
シリアスにならず、とにかくそういう楽しみかたをする映画で、あまり各作品について細かく考え詰めるものではないです(実際、展開がまったくもって意味不明な作品も多々あり)。
ただ、やっぱりもうちょっと各エピソードを細かく見直したいですね。ということで広島で公開されたらもう一回観ようそうしよう。

崩壊した家庭の再生とか、身近な死を通して思春期の少女が生きる意味を考えるとか、そういう部分は確かにある映画です。で、そういう視点で見ても、これは極めて優れた映画だと思いますし、世間的な評価もそういう部分に集中するでしょ。
ある事件をきっかけに、崩れかけていた家庭が再度結束していく過程を描いた映画。「社会も家族も病んでいる現代」という時代性も持った、社会性の強い映画とも言えます。
家族みんなが何らかの問題を抱えて生きており、その問題故に自殺未遂をしたり、約束された将来を敢えて棒に振ったり、家を出て行ったり、仕事を辞めたりしている家族。そしてそんな中で唯一「普通に」生きている主人公。

※注意※ この先微妙にネタばれあり。
ちょっとでもこの映画に興味がある人は、まず劇場に見に行きましょう。
それからこれを読んでくだちい。

koufuku_01

広島ではバルト11の中の1スクリーンにおいての、ごく短期間の上映(普通に2週間、その後一日一回夕方の上映が一週間)で、世間的に盛り上がってきて新聞記事などでも取り上げられはじめた頃には上映が終了していたという『時をかける少女』
公開第一週は劇場内がガラガラでしたが、公開第二週にもう一度行くと超満員、そしてその後間もなく上映終了という、映画館にとっては笑うに笑えない公開状況だった訳ですが、どうやら配給元もここまでのヒットは予想しておらず、
「ヲタ向けに劇場で短期間公開した後はDVDで稼ぐさ」
程度の認識で、上映用のフィルムも少量しか用意しておらず、拡大公開しようにも物理的に不可能だったということのようです。
さて、blogを始めとしてネット上での大盛り上がりも一段落してきたところで、ようやく広島にもフィルムが戻ってくるようです!

時をかける少女('06日/1h39/カラー/ビスタ/デジタル/角川ヘラルド映画)
11月5日(日)~10日(金) サロンシネマ (鷹野橋)

たったの6日間だけとはいえ、これは朗報です。
おそらくこれを逃すと、もう広島ではスクリーンで見られないと思われます。広島在住で未見の人は見に行きましょう。既に見た人ももう一度、いや何度でも行きましょう。

と、それはともかくとして、国内のweb上での高評価にとどまらず、一般紙(誌)や映画専門誌での高評価、さらにシッチェス映画祭に出品されてアニメーション部門最優秀長編作品賞を受賞したりと、当初の配給会社の思惑を越えて、この作品、どんどん一人歩きしているようです。

ときかけWebマーケティングの有効な手段の一つとして、blogを使ったマーケティングが注目されて随分経ちます。
blogマーケティングについてはIT mediaこのあたりに簡単にまとめられていますのでご参考までに。
俺は以前に勤務先でインハウスのコンタクトセンター立ち上げに関った際に、所謂CRM(エリック・コマスがやっているマネジメント会社のことではない)に関しても一通りの学習はしたつもりです。
その時の実感を踏まえると(その頃はblogマーケティングだのCGMだのなんて話はありませんでしたが)webとかネットという手段を使って顧客層の開拓を図ったり、既存顧客とのリレーションを保ち続けるなんていうのは、俺自身は、幻想に過ぎないのではないか、と。
だから先にリンクしたIT mediaに書かれているようなマーケティング手法も同様であろう、と思ってたんですが・・・この『時をかける少女』などは、一見するとblogマーケティングが成功した典型とも言えます。
実際、公式サイト以外に「公式blog」を作り、トラックバックは基本的にご自由にどうぞ、ってな感じでやっていますし、俺自身のこのblogも、『時かけ』のエントリに対してついたトラックバックの数も多く、また、公開当時は『時かけ』関連の検索ワードでここに来る人も多かったようです。
そのトラバを辿ったり、そのまた先のblogへ行ったりして『時かけ』関連のレビューを読むと、まさにCGMを使ったマーケティングの成功例としての典型とも言える状況が生じているのが判ります。

最初に『時かけ』を取り上げたこのエントリでも書きましたが、配給元の角川ヘラルドは、最初はこの映画を、コアなアニメオタク、所謂「アニヲタ」だけをしっかり取り込んで、堅実に儲けようとしていた節が伺えます。
何よりも、オフィシャルサイトに寄せられた推薦文を書いている人たちが、

村上隆
現代芸術家。作風のルーツはアニメにあり、と自ら公言し、実際、その作品は、秋葉原中央通沿いの小汚い雑居ビルの中にショップを構えるヲタ系ショップで売られている美少女アニメ系フィギュアとどこがどう違うのか、芸術的にシロートの俺にはよくわからない。
乙一
気鋭の若手ミステリ作家であるが、自身そのルーツはラノベ(ライトノベル)にある、と明言。また実際デビューはラノベ系作家としてであった。
杉浦由美子
著書に『オタク女子研究-腐女子思想大系』がある。
樋口真嗣
『日本沈没』『ローレライ』の本編監督として名を下げつつあるが、特撮ヲタの聖典「平成ガメラ三部作」で、それまでの特撮とかSFX作品に見られなかった斬新な画作りを見せ、日本特撮界の寵児とされていた時代もあった。
押井守
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の監督として名を上げ、その後『機動警察パトレイバー』『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』などで、所謂ジャパニメーションの第一人者として国内はもとより、ジェイムス・キャメロンやマトリックスのウォシャウスキー兄弟など海外の第一線のクリエイター達にも大きな影響を与え続けているアニメーター/演出家。
と、こんな具合。どこをどう見ても、この面子が書いた推薦文が、まっとうな生活を送っている一般の人たちに広告的訴求力を発揮するとは思えません。
非ヲタの一般客なんて端から当てにせず、ひたすらアニヲタだけを取り込もう。いや典型的な「アキバ系アニヲタ」だけじゃなくて、池袋系腐女子群もしっかり取り込んで、ヲタ属性からきっちりお金を巻き上げましょう、という努力だけは痛いくらい感じましたがね。

ところが。

おそらくはYahoo movieのユーザーレビューで長期に亘って高得点を維持し続けたのが導火線となったと思われますが、公開から程なく、各都市で単館公開された劇場には、当初の予定になかった「一般の人たち」が押し寄せ、さらに観にいった人からの口コミもあり、遂には連日満員で入場を制限していたような状況が生まれた訳です。
公開が中学・高校の一学期終了前で、「学校での口コミ」が伝わりやすい時期だったこと、そしてその後に夏休みに入り、就学年齢の若い子たちが映画館に行きやすい状況になった、というのも要因として大きかったかもしれません。
同時期に公開されたジブリ『ゲド戦記』のように、テレビや出版を巻き込んだ、国家を挙げた夏の一大イベントでもやるかのようなキャンペーンなど一切やらずに(つまり宣伝費をほとんど掛けずに)こういう状況が生まれたことは、まさにCGMマーケティングの理想の公式に見事に則ったもの、と言ってもいいんでしょうが。。。
ただ、角川ヘラルドが当初からそういうマーケティング戦略を採っていたのか、というと、先に挙げた公式サイトの推薦文を見る限り、そして公開規模や用意した上映用フィルムの本数を見る限り、そうは思えません。
製作サイド・配給サイドが当初からCGMマーケティングを使おうとした訳ではない以上、厳密には「CGMマーケティングの成功例」とはいえないんではないでしょうか。せいぜい、「CGMマーケティングの可能性を否定しない材料」程度ではないかと思いますね。むしろ「CGMマーケティングは偶発的にしか成功し得ない」例、とも言えるかも。ってのは言いすぎか。

そもそも、俺を含むbloger達は、誰に頼まれて『時をかける少女』をプッシュしたわけでもありません。
作為的にCGMを使おうとしても、CGMに乗っかりそうな人たち(CGMの"C"、読み手であれ書き手であれ)は、巨大掲示板サイトやmixiなんかの活用により、メディアリテラシーが相当高くなっており、そういう作為的な盛り上げをしようとしても、作為の存在を漠然と読み取る力を持っている、と思うんですね。

ならば、何故、『時をかける少女』は(表層的に見て)CGMマーケティングの成功例たり得たのでしょうか?

結局は、作品(コンテンツ)そのものの質が、極めて高かったから、に他ならないでしょう。
延々長文を書き続けて導き出された結論が、至極当たり前のものであることに、書いている俺自身がうんざりしていますが、事実だからしょうがない。
だってそうでしょ。『時かけ』が素晴らしい映画だったからこそ、観にいった人達はYahoo movieで高得点をつけ、blogerや個人サイト製作者はこの作品を称える記事を書き、週末に映画にでも行こうと考えている人たちが周囲にいたらこの作品を薦め、結果として一般紙(誌)ですら無視できないような状況を生んだ、ということです。

製作サイドは、マーケティング戦略なんてこと以前に、質の高いコンテンツを作り出すことにこそ腐心すべきで、逆に言うと、良質のコンテンツさえあれば、変に宣伝戦略に凝らなくても、自動的にCGMマーケティングの仕組みが、そのコンテンツを世間に広めてくれるという時代になった、とも言えます。
そう考えると、巨大資本の下で製作される作品ではなく、むしろ、良質だけれども作って世に出すだけで精一杯、というような作品が、興行的に正当な結果を得る事ができるという、20世紀にはあまり起こり得なかったことが普通に有り得る、いい世の中になってきた、とも言えるかも。

フラガール(オフィシャルサイト) (公式blogはこちら
少なくとも今までに公開された今年の日本映画の中では、個人的な最高傑作と言いきれます。

フラガール
監督は李相日(り・さんいる)。故・今村昌平が設立した日本映画学校の卒業生であり、卒業制作の作品がPFFのグランプリを獲得、という、この種の娯楽商業映画を手がける若手としては微妙な経歴の持ち主。
この人の映画は『スクラップ・ヘブン』しか見ていませんでしたが、これが、出ている俳優達は、気鋭の映画作家による作家性の強い映画に出演することで自らのフィルモグラフィにバリューを得ようとし、一方の監督は監督で、加瀬亮・オダジョー・栗山千明といった決して万人受けはしないアクの強い個性派若手俳優たちを多くキャスティングすることで、映画そのもののエキセントリックさを加速する、という、今世紀のミニシアター系邦画にありがちな、なんとも独善的な(そしてあまりおもしろくない)映画だったというイメージしかありません。
そんな監督が、ここまでに見事な純娯楽映画を作るとは。正直、見くびってましたすいません。

俳優陣、特に蒼井優と松雪泰子がいいです。
蒼井はもう日本の若手女優の中では頭一つ抜けていると言える存在ですが、この作品でも見事な仕事をしています。
以前、「宮崎あおい・香椎由宇・堀北真希・沢尻エリカ」の四人を、この年代層のトップ4みたいな感じで書きましたが、考えてみたら(子役出身の宮崎は別として)蒼井はキャリアが長いとはいえ、この四人と同じ年代だということに今更ながら気がつきましたが・・・それにしても蒼井を含めた五人の出演作の公開ラッシュですなあ。
松雪泰子は、彼女のいままでのパブリック・イメージとちょっとズレた役をやっているんですが、粗暴だけど人情味溢れるはぐれ先生役を、これも見事にこなしていました。彼女の表情に、何度か涙が・・・
松雪泰子
でも、俳優陣に頼っただけの作品ではなく、何よりも脚本の構成というかドラマの組み立てが見事。
脚本は監督とは別の、ベテランシナリオライターだろ、と思ったら、ラストのクレジットを見たら(共同執筆ではありますが)監督が書いているんで、またびっくり。
ストーリーの大筋は、石炭から石油への産業構造の変節に伴い斜陽化が著しい常磐炭田が、炭鉱から出る温泉を利用して、『常磐ハワイアンセンター』を設立する、って書くと、『プロジェクトX』みたいなんですが(実際、そういう方向で見ても楽しいんですが)、決して「実話の持つ重み」だけに頼ったものではなく、きっちり作劇された、見事な娯楽作です。

「フラダンス」のイメージというか、なんでも、フラダンス、というのは正しい表現ではなく、「フラ」という言葉そのものに「ダンス」の意味合いが含まれており、単に「フラ」と言うのが正しいんだそうですが、スティールギターののんびりした音にあわせて手をゆらゆらさせながら腰をゆっくり左右に振って踊るものをイメージしていていましたが、そんな先入観が、序盤に松雪泰子が見せるダンスで打ち砕かれます。
そして映画的に最も盛り上がる、ラスト、竣工なった常磐ハワイアンセンターの晴れ舞台で、フラガールたちが踊るフラ。
そこに到るまでに周到に張り巡らされた、ガールズ一人ひとりの背後にあったドラマ。そのいろんなドラマを見てきているからこそ、ラストでフラの群舞を魅せるフラガール一人ひとりに限りない思い入れを感じ、エモーショナルかつパーカッシヴなサウンドの高鳴りと爆発的なダンスに、強いカタルシスを感じることができたんですね。
一人ひとりのダンサーたちが織り成す群舞、それぞれの背中に背負ったそれぞれのドラマが織り成す、まさにシンフォニックに構築された脚本の構成は、見事としか言いようがありません。

俺の周囲では、昨年、『オールウェイズ 三丁目の夕日』を劇場で見損ねていて、その後の好評に慌ててDVDになってから見て「映画館で見ればよかった」と後悔した人が結構います。
まずはそいつらに、
「また後悔したくなければ、今のうちに『フラガール』見とけって。あ、念のためハンカチ忘れないでね」
と言って回る日々が続いています。

この世に生を受けてから今日まで、最も自分に影響を及ぼした映像作品といえば、それはやはり円谷プロのウルトラシリーズであろうことは、当の自分が一番よく知っているつもりです。
ええ、特撮スキーですとも。ゴジラだってガメラだって好きです。
特撮という言葉がいつしかSFXという言葉に取って代わられ、その後、「特撮」というのが、サブカル的「ジャンル」の一つとして認知される時代にもなりました(要するに「特撮ヲタ」というのが、ヲタクの一分類として成立したってことですが)。
でも自分にとって、特撮の原点とは、劇場映画中心のゴジラやガメラでもなく、等身大ヒーローの仮面ライダーでもなく、あくまでもウルトラマンでした。
ウルトラマンでジャンル系に目覚め、この種の空想モノに対する免疫ができていたからこそ、スター・ウォーズや未知との遭遇などの舶来SF映画にも抵抗なく入れたとも言えます。
ウルトラマンはリアルタイムで見たのは「帰ってきたウルトラマン」。それ以前のセブン、初代マンは年齢的にも再放送で見ていたクチです。
そんな自分が、「新シリーズ」として初回から欠かさず見続けたのが「ウルトラマンエース」。
初恋の相手は、何を隠そう、南夕子隊員でしたとも。ええ。
その後、タロウ、レオと見続けましたが、レオの後期あたりから徐々にシリーズそのものの持っていた勢いが衰えてきたのが、子供の目にも明らかになるにつれて、過去のシリーズを見たいという渇望に苦しむ日々(今みたいにDVDとかありませんし)。
幾度か訪れるウルトラのリバイバルブームの度に、再放送されるウルトラシリーズを見まくり、カードが流行った時は集めまくりました。
時が経ち、新しいウルトラマンが現れることもなくなって久しかったある日、「ウルトラマンティガ」という番組に出会い、過去のシリーズの流れから完全に独立した世界観の設定に一抹の寂しさを覚えつつも、その作品としての完成度の高さと、「新しいモノを作るんだ」という若い作り手たちの意気込みをストレートに反映したような新鮮な雰囲気に、新たな「ウルトラマン」との出会いを喜び、「ウルトラマンガイア」では、とても子供向け番組とは思えない大河ドラマ的なストーリー展開と、それまでにない高度な設定に、ヲタを離れた一人の大人のSFファンとしても満足させられ。

そんな自分にとって、まさに悶え死ぬほどに豪華な映画。

今年はウルトラ40周年という記念すべき年。
これを記念した新シリーズ「ウルトラマンメビウス」は、久々に、「光の国」と「ウルトラ兄弟」という設定を踏まえた新シリーズ、という触れ込みですが、残念ながら広島では、数週遅れ、しかも木曜日の真昼間という、普通の社会人が見ることは極めて困難な時間帯に放送されていますので、まともに見たことはありません。
それでも、このシリーズと連動した映画が作られている、しかも、あろうことか、

ハヤタ、モロボシ・ダン、郷さん、北斗さんが出演する!

・・・これを知った時点で即死。

スーパーマンがリターンしたとか、そういうの目じゃないから。てかどうでもいい。
ウルトラ兄弟が、その人間体を演じた俳優さん本人たち自身の出演で、見られる。
当時の変身ポーズもそのままに。

以下、もうまともなことは書けませんので、箇条書き。

  • 主役は現役ウルトラマンたるウルトラマンメビウス・・・の筈。でも我々「大きなお友達」のためのサービスシーンが満載。今の子供達にこの面白さが伝わらないのが歯がゆい!
  • 北斗さんは劇中、ちゃんと白いマフラーをしている!
  • 放送当初、すらっとしたモデルらしい長身で格好よかった郷さんが、一番ギャップがあったかも。でも佐伯日菜子版エコエコアザラクのお父さん役なんかで時々見かけていたので、ショックは少なめ・・・
  • 4人の先達のキャラが、ちゃんと老いてもなおそのままなのが素敵。特に北斗さん。末っ子らしい向こう見ずなところ。それを嗜める役回りのハヤタとダン。そして郷さんは、そんな両世代の間に入って、北斗に次ぐ熱いキャラ。
    ハヤタ「今度負けたら、どういうことになるか・・・」
    郷さん「勝てばいいんです!」
    ・・・いやあ最高!
  • 4人の兄弟の人間体のうち、北斗さんの登場シーンが最高。顔が映る前に、手のアップ。そこにはウルトラリングが・・・
  • ハヤタさんはともかくとして、あとの3人が、やっぱり放送当時のキャラからちゃんと繋がっている職に就いているのも素敵だね。
  • 「板野サーカス」全開!超獣「Uキラーサウルス」は、体中からベロクロンもかくや、というくらい無数のミサイル?を発射するけれど、それを迎撃したり避けたりしながら飛び回るウルトラ兄弟!
  • 他の兄弟が「シュワッチ」「ヘェアアァッ!」なのに、セブンの声がちゃんと「ジュワ!」になっているのも素敵。
  • ザラブ星人の声が、放送当時と同じ声優さんなのも感激。
  • エースがメタリウム光線を放つ時、ちゃんとバックスィングするのにも感激。
  • タロウのストリウム光線の時に体中がハレーションを起こすような効果、あれも再現されていた!
  • 巷では「ゾフィー最弱説」があるが、そんなことはなかったね。M87光線をじっくり見れた。
  • 地味ながら、ちゃんと帰りマンの「流星キック」が見られたのもいい!
  • 変身シーンの光学合成素材が当時のままなのが、これも感涙モノ。
  • そういえばタロウ=東光太郎役の篠田三郎さんが不参加なのはちょっと残念・・・
  • 俗に言う「平成三部作」、それに続く「Nプロジェクト」に出ていた俳優さんたちもゲスト的に出ていたのもよかった。40周年、先祖がえりと言っても、あの作品群がなければ、ウルトラシリーズが続いていたかどうか・・・
  • ある意味、本編以上に感動的だったのは、エンディングのタイトルバックで流れる過去の映像のフラッシュバック。ハヤタ、ダン、郷さん、北斗さんの4人だけでなく、MATの南隊員、そしてフジアキコ隊員!アンヌ!夕子さんが!
    いやあ、それにしてもアンヌことひし美ゆりこさんはかわいい。もういいお年だと思うけどね、なんてかわいいんだろう。
  • それにしても、「平成三部作」で全く新しい「人間・ウルトラマン」を描き出した後、「Nプロジェクト」を挟んで「ウルトラマンマックス」で、「タロウ」もかくや、というほどに「明るく楽しい」ウルトラマンに、いわば先祖がえりしたけれど、こんどはもっとストレートに、かつてのファン達のノスタルジーを刺激するという方策に出てきたのは、冷静に考えればどうなんだ、という気もするけど。
  • でも、作り手達は、これを作り始めた瞬間、そういう建前論はぶっとんだんだろうな。見るほうもぶっ飛んでるもんな。
  • 音楽がいい。殆ど全編に渡ってBGMが鳴り響いているという感じだけど、しょっぱなに鳴り響く勇ましいファンファーレから一転、宇宙での4兄弟と超獣の死闘での重厚な曲調、さらにマン、セブン、帰りマン、エースの各テーマを効果的に使い、クライマックスでここぞとばかり鳴り響く「ウルトラ六兄弟のテーマ」。音楽だけ聴いても、何度も死ねます。
  • 「ティガ・ダイナ・ガイア」は、脚本が素晴らしく、映画としての完成度も高かった。
    昨年春の「ULTRAMAN」の「ハリウッドのアメコミ原作と同様の手法で、誰もが知っている普遍的なヒーローを大人の鑑賞に堪えうるエンタテイメントとして蘇生させる」志の高さもすばらしかった。それらに比して、純粋に映画としてどうか、と言われれば、一段落ちるとしか言いようがないけれど、そういう尺度で測れるものではないし、測るべきでもない
    見終わって劇場を去る時に得られる満足感では、それらの作品はこの作品の足元にも及ばないと言っていい。
とりあえずもう一回観に行く。絶対いく。

いやー、今、映画の『電車男』をテレビで見ながら、2chの実況チャンネルに参加しようと思ったんですが・・・

流れ速すぎますよおまいら

やっぱ俺にとっては、モータースポーツ実況板くらいの人工密度で、実況対象専門のヲタが集いながら、濃度の高い盛り上がりに身を委ねる方が合ってますよ。

それにしても、やっぱりこれ、普遍的にいい映画だと思いますよ。
劇場に行ったときは、周りの客層が、20代前半のカップルばっかり(しかも超満員)だったので、驚いたものです。
だって、これってそもそも、ヲタ男と負け犬女のためのファンタジーだったんじゃないのかよ、って、その時は思ったものです。
嗚呼、こんな俄か作りのインスタント映画なのに、ほんとにいい映画だよなあ、これ。 興行面も含めて、これは2005年邦画界の奇跡だと思いますですよ。

映画の出来については、今更ここでくどくど言うまでもないんですが。
これは普遍性を持った傑作映画です。リアルタイムで青春を過ごしている人だけではなく、年を取った自分(まあ所謂大林版世代とでもいいますか)でも十分に楽しめる普遍性を持った作品。それでいて、世界一眼が肥えている日本のアニメファン(=ヲタ)にも有無をも言わせぬ完成度。
ときかけ
既にYahooムービーを始めとする映画関係サイトや掲示板では、圧倒的な高評価が与えられており、個人的にもこの夏一番の傑作だと思います。いやこれは身内の身びいきとかそういうのではなく。
正直、映画を見る前までは、かなり心配でした。ジブリと日本テレビの圧倒的な物量宣伝に潰されるんじゃないの?とか。
実際、『ハウル』の細田降板があり、今回の公開時期バッティングですから、若い芽を摘むジブリと、それに対抗する角ヘラ+細田連合、とか、場外からはそういううがった見方もできるわけですが、まあ公開時期が重なったのは単なる偶然でしょう。
でも結果として、これは角ヘラ+細田の圧勝じゃないですか。いや興行的にはスクリーン数がそもそも一ケタ違うし、客席数ではさらにその数倍の差があるんで、比較すること自体がナンセンスですが、映画の出来は圧倒的にこちらに軍配が上がるんじゃないですか。
宣伝展開も、公開前の宣伝材料として、ヲタ系に受けのいい乙一や樋口真嗣、押井守、さらには「腐女子の好物もいっぱい」とか、明らかに対象をヲタに絞っていたと思われるのに、蓋を開ければ、ヲタだけではなく一般客も含め、みんなが大満足。そしてテレビスポットもほとんど打たれていないにも関らず、口コミでヒットですから。

時をかける少女』の映画化は、自分が知る限りでは、大林&原田知世版、角川春樹自身が監督した版、そしてこれが3つ目じゃないかと思うんですが、大林版は、原作のストーリーやエッセンスを大切にしつつも、独自の大林ワールドに原作を絡め取った、というイメージでした。
春樹版は・・・何も言いません。
そしてこの3作目。
ストーリーは大胆に原作から離れています。基本は「女子高校生がタイムリープする」、というところだけで、他は全面的に変わっている、と言ってもいいでしょう。
ところがこの改変があるにも関らず、立派に「21世紀のトキカケ」になっている。それは原作の持つ、思春期の登場人物達の手触りのリアルさがそう思わせるのかもしれません。
原作版は、SF小説である以上に、「青春小説」だったということなのかも。
さらに、原作版(そして大林版)の主人公であった芳山和子を、主人公の叔母として、原作のキャラクターのまま成長した女性として登場させ、原作との継続性も持たせて、原作ファン(そして原作そのもの)への気配りも忘れていません。 原作者もこの大胆な改変を、結果的に大変好意的に捉えているようですが、自分も、ある意味大林版よりもトキカケしている、とも思える、この脚本の出来の良さが、この映画の一番の肝だなあと。
そして緻密にして大胆な細田守の天才演出は、第二の肝。
素晴らしい主題歌は第三の肝。

とにかく素晴らしい映画です。見に行く価値がある、入場料金1800円以上の価値がある作品です。

ところでFLIXのサイトがリニューアルされていることは知りませんでしたが、そこのニュースがmixiに配信されており、このニュースはmixi経由で知りました。

■ネットの口コミで大ヒット?『時をかける少女』は連日超満員!

(前略)筒井康隆の名作を新たな構想で製作したアニメーション『時をかける少女』が7月15日に都内で公開されてから、テアトル新宿ほか、都内の公開劇場でじわじわと観客動員数を伸ばしている。

 テレビスポットを何度も打つような大々的な宣伝を特にしていない本作が、公開から順調に観客動員数を伸ばしているのは、Yahoo!ムービーのユーザーレビュー1位などネットや友人から評判を聞きつけた“口コミ”客が増えていっていることが、大ヒットの要因のひとつとなっている。(後略)

シネマトゥディ 8/10のニュースより

ここ広島では、当初から単館公開(とはいってもミニシアターではなくバルト11という、T-JOY系の、広島では屈指のシネコンでの公開ですが)、そして8月11日をもって公開終了という惨状でした orz
ただ、自分はこの映画、公開週と、その翌週の二度、見に行きましたが(いずれもウィークディ)、公開週に見に行った時は劇場内には自分を含めて20人ほどしかいなかった観客が、翌週には席がほとんど埋まり、空席は数えられる程度になっていたのを見て、驚きました。
高校が夏休みに入っていたからだ、というのもあるかもしれませんが、とてもじゃないがヲタク文化不毛の地広島で、ウィークデイ真昼間の劇場を埋め切るだけの多数のヲタが生息しているとも思えませんし、そもそも観客の大多数は若いカップルですから。
まあバルト11では当初から公開は2週間だけ、と決めていたんでしょうから、公開期間の後半になって急激に客足が伸びたからといって、急遽公開延長、というわけにもいかないんでしょうけどね。夏はかき入れ時で、スクリーンもいっぱいいっぱいでしょうし。
それでもこうして口コミで評判になり、ネットのニュースにもなってきた頃にはもう劇場ではやってません、てな状況はいかがなものですかね。
こういった細かい状況の積み重ねが、ヲタ文化に限らず、映画とか音楽とかの大衆文化の根付きというか広がりが弱い広島の状況を生んでいるというかなんというか。

 Copyright © MotorsportsFlashback 弐 All rights reserved. 

 / Template by 無料ブログ テンプレート カスタマイズ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。